永山在兼
~大自然を旅する時代へ。観光と道路を結びつけた先駆者~第3回  フリーライター 柴田美幸 

公開

最大の難工事「阿寒横断道路」に挑む
 阿寒湖畔〜弟子屈間の阿寒横断道路は、予想どおりもっとも困難な大工事となった。道具はスコップ、ツルハシなどで、すべて人力頼みだ。この区間は最高地点で標高が700m以上あるうえ、七十七曲がりと呼ばれたカーブの多い難所だった。土砂を運ぶにもカーブが多くて路盤が弱く、運搬用トロッコの軌道を敷けないので、モッコ(縄などで編んだ運搬用の網)を用い、手作業で運ばなければならなかった。また、道路の土台をつくるためダイナマイトを谷の中腹に仕掛けて崩すのだが、岩石が谷底に落ちてしまい、道路の路盤(道路となる平らなところ)をつくるためのノリ面(斜面)がなかなかできない。そのため設計変更がひんぱんに行われた。とくに弟子屈側の清水の沢付近の前後数kmは、雄阿寒岳噴火の岩石が多く急斜面の難所で、100mほど進むのに1カ月以上かかることもあった。岩盤を爆破したときには、反対側の斜面まで岩石の破片が飛んでけが人も出た。
 そうでなくても、笹が生い茂り霧も深い急斜面での作業は、一歩踏み外せば奈落の谷底である。測量助手を務めた人は、目もくらむような崖で測量するのがなにより恐ろしかったと語っている。当時は測量具も十分でなく、トンボ(棒に紙テープのリボンを結び、10間ごとに立てて水平、勾配を見る)を用いた原始的な方法で行っていた。それを設計が変更されるたびにやり直したというから、苦労がしのばれる。
下請けの作業員も多数雇われており、厳しい労働環境での彼らの苦労は大変なものだった。飲料水や食料は、谷底につくった宿舎から山腹の工事現場まで、800段のはしご段をつくって運んでいた。夏は蚊やヘビに悩まされ、そのうえクマが出没するので、作業員は夜になると宿舎の外に一歩も出られなかったという話もある。
そして永山は何度も道庁へ赴き、かさんでいく予算獲得の交渉を粘り強く続けた。

 さまざまな困難が連続する中でも、永山は現場に立ち続けた。ハンチング帽をかぶりステッキを持った軽装で、クマ対策だったのだろう、肩に猟銃を携えていたという。
 現場での永山は、部下の能力を的確に見抜き、適所に起用することに長けていた。たとえば、測量担当のひとりはかなりの酒好きで、酔ったまま作業員に背負われて測量することもあった。しかし、測量の腕は一流であることを永山は認めて起用し続けた。ちなみに、永山も相当な酒豪で、そのせいで胃潰瘍を患い、痛む背中を部下がさすってやることもあったという。また、工事を請け負った業者や作業員に対しては厳しい反面、面倒見がよかったという話も伝わる。

 着工から3年後の昭和5(1930)年、最大の難関だった阿寒横断道路はついに完成した。ただ、道幅は約3.6mと自動車1台がやっと通れるくらい。さらに七七曲がりと言われるほど、急カーブが連続する道だった。開通式の第1号運転手となった伊藤保雄(鉄次郎の息子)によると、急斜面の路肩がくずれていくので板を敷いて通ったという。復路は恐ろしくて別の道を通って帰ると、家族が足を見て「幽霊ではないのか」と言ったとか。一応完成したもののしばらくは通れず、ひんぱんに修復が必要だった。このように、阿寒横断道路は悪路のうえスリル満点で、通り抜けるのに時速10キロ程度で3、4時間かかった。そして11月末から6月くらいにかけては通ることができなかった。

開通当時の阿寒横断道路(出典:目で見る阿寒国立公園史)

阿寒横断道路から見た雌阿寒岳(出典:目で見る阿寒国立公園史)

 だが、永山が拓いた道路は大きな役割を果たした。昭和6(1931)年、国立公園法が制定されると、国立公園調査委員の一行が視察に訪れる。阿寒湖の自然美を高く評価し、国立公園指定運動のきっかけとなった田村剛(つよし)博士をはじめとするメンバーは、弟子屈から自動車に分乗して3つの湖の範囲をめぐった。途中には、道路を修復している作業員の姿が見られたという。結果、全域の評価が高まり、昭和9(1934)年の阿寒国立公園指定につながった。これらの道路の完成がなければ視察は厳しく、国立公園にはならなかったかもしれないと、多くの関係者が語っている。

国立公園調査会の現地視察風景(出典:目で見る阿寒国立公園史)

 昭和6年には阿寒湖畔〜茂足寄間も完成した。ここでも測量位置決定の目印の杭をクマが全部抜いてしまったりと、苦労が絶えなかったようだ。これで工期4年、しかも1年の半分は積雪で作業できないので、実質2年ほどの脅威的なスピードで全線約80kmが完成したことになる。永山は前人未到の大仕事を成し遂げたのだ。だが、調査委員の視察時にも全線完成時にも、その姿はなかった。

 昭和5(1930)年、永山は旭川土木事務所長に転任する。一説には、阿寒横断道路の工事費が予算を大幅にオーバーし巨額になったため、責任を負って旭川へ転任の命が下ったとも言われる。表向きは栄転だが、実際には左遷だった。こうして、永山の12年にもおよぶ釧路土木事務所での大仕事は終わりを告げたのである。
 旭川時代の永山は、旭川市内の師団通の拡幅整備のほか、旭橋の建設に携わった。大日本帝国陸軍第七師団へ通じる要所で、初代の鋼製の橋の老朽化にともない架け替えが決まったのだ。設計は、北海道帝国大学工学部長の吉町太郎一(よしまち たろういち)で、これも廣井勇の教え子である。

現存する唯一の北海道三大名橋の旭橋

 昭和5(1930)年に施工が始まるが、なんと完成前に、永山は留萌へ転任となってしまう。この理由について、次女・郁子は次のように語っている。昭和6(1931)年にぼっ発した満州事変によって鋼材を節約しようとする道庁の方針に対し、「橋は50年、100年の命」と言って応じなかったからだと。それは、廣井勇が大学の授業で言い続けた「橋をかけるなら、人が安心して渡れるようなものを作れ」という言葉を実践したかのようだ。そして100年先を見据えた仕事をしなければならないという決心も、廣井から学んだことだったかもしれない。

 永山は釧路時代に、昭和3(1928)年の幣舞(ぬさまい)橋架設にも携わっている。それまで3代続いた木橋から、道内初の鉄筋コンクリートを使用した永久橋への架け替えは、永山の発案によるものだった。
 昭和初期の札幌の豊平橋、釧路の幣舞橋、そして昭和7(1932)年に完成した旭川の旭橋は、「北海道の三大名橋」と言われた。そのうち2橋に永山が関わったことになる。なかでも旭橋は唯一、現在まで当時の姿を留めている。

4代目幣舞橋(出典:釧路開発建設部 幣舞橋ライブラリー

阿寒の道の記憶に刻まれた技術者の名
 その後の永山は不遇だった。昭和7に留萌土木事務所長、翌8(1933)年には室蘭土木事務所長に転任。まさにたらい回しにされたのである。室蘭時代には、当時の道庁長官に旭川の景勝地・神居古潭(カムイコタン)の銘石を東京の自宅に運んでほしいと言われたが、永山は公私混同だと断固拒否。それが原因で道庁の土木部道路課へ左遷になったという話もある。道庁ではろくに仕事も与えられず、窓際の状態だった。
 昭和10(1935)年、永山は道庁を辞職。そして、骨を埋めると決めていたという北海道を離れた。同年、川崎市水道部長に就任し、上水道の事業や工業用水道工事の企画立案を手掛けている。昭和13(1938)年には日中戦争で陸軍大佐として中国大陸へ渡るが、持病の胃潰瘍のため帰国。その後、九州の八幡市役所(現・北九州市)に勤務した。晩年は故郷の鹿児島で、学生時代に嗜んでいた薩摩琵琶を弾きながら悠々自適の生活を送った。
 永山の最後の仕事は、昭和18(1943)年に開校した鹿児島市立工業高校の教師だったが、昭和20(1945)年、突然胃潰瘍が悪化し病の床につく。第2次世界対戦末期で鹿児島も空襲を受けるようになり、そのたびに妻と長女が永山を抱えて防空壕に避難した。空襲が激しさを増しつつあった5月17日、永山は自宅で死去する。享年56歳。死因は胃潰瘍ではなく心臓マヒだった。

 北海道では昭和初期以降、永山が思い描いていた周遊観光ルートが実現していった。永山によって道が拓かれてから、阿寒湖周辺地域の産業は林業から観光へ移り変わっていく。昭和6年の釧網本線の全通、昭和9年の阿寒国立公園指定とともに道東への観光が本格化し、バス路線が開かれた。湖畔には観光客を受け入れるための旅館やホテルが立ち並び、遊覧船も就航した。戦後は、阿寒エリアが映画のロケ地になったことなどをきっかけに、観光ブームに沸いていく。現在の観光地としての基礎がこうして出来上がったのである。
 昭和6年頃、地元の人は阿寒横断道路を「永山道路」、もっとも標高の高い双岳台(そうがくだい)付近を「永山峠」と呼び偉業をたたえた。道半ばで北海道を離れざるを得なかった永山だが、その名は、「阿寒国立公園の父」として阿寒の道の記憶の中に刻まれている。

永山峠の標柱(出典:目で見る阿寒国立公園史)

秋の双岳台(永山峠)(出典:目で見る阿寒国立公園史)

永山在兼顕彰の碑(写真提供:片岡佑平氏)

(完)  (文責:フリーライター 柴田美幸)

<参考文献>
『阿寒横断道路開道五十年 永山在兼顕彰の碑建立記念誌』阿寒国立公園広域観光協議会
『国立公園指定50周年記念 阿寒国立公園の三恩人』種市佐改(釧路観光連盟)
『北海道東部開発の先駆者 永山在兼顕彰誌』四元幸夫(鹿児島県日置郡東市来町)
『弟子屈町100年記念「風・人・大地」』弟子屈町
『阿寒町史』阿寒町史編纂委員会
『弟子屈町史』(昭和24年版・昭和56年版・平成17年版)
『北海道道路史 Ⅲ路線史編』北海道道路史調査会
『ほっかいどう学新聞 第2号 広域観光のための道路が戦前にできたのは、なぜ?』北室かず子
第1回 人で繋がるシーニックバイウェイプロジェクト「永山在兼と2つのみち」レジュメ 「永山在兼と阿寒国立公園への道」小林俊夫

<監修・協力>
小林俊夫氏(前弟子屈町教育委員会教育長)
片岡佑平氏(弟子屈町教育委員会社会教育課学芸員)
新保元康氏(特定非営利活動法人ほっかいどう学推進フォーラム理事長)