北海道みなとまちの歴史
萩原建設工業(株)
特別顧問 関口信一郎

1.港町~北海道開拓の前進基地

 北海道の開拓はどのように進んできたか、その進展の歴史は海陸の交通ネットワークの展開と港町の発展に着目すると理解しやすい。交通により人と物が移動し、海陸の交通の結束点である港町では人々の活動と物貨の集積により、漁業はもちろん商業や工業が勃興し文化や経済が発展するからである。そのため、第一期拓殖計画(1909~1926)では、全予算の3割以上が港湾建設に投入された。築港は拓殖計画最大のプロジェクトであった。したがって、港町の歴史を語ることは北海道の開拓の推進力を語ることでもある。
本稿では紙面の都合上、海運のネットワークと道内の鉄道の進展に伴う函館、小樽の発展を中心に述べる。個々の築港と港町の発展の様子については触れることができないので、近刊の拙著『北海道みなとまちの歴史』(亜璃西(ありす)社)をご覧いただければ幸いである。

2.函館・小樽の発展と海陸のネットワーク

 日本海の海運は早くから開け、室町時代には越前・若狭から北陸・出羽・津軽・蝦夷島に至る海運があったが、寛永年間(1624~1643)に西回り航路が開発され大坂に達するようになると、3湊(松前、江差、箱館)出入の船舶もその航路を利用し大坂に連絡するようになり、3湊は交易拠点として発展した。松前は背後地が狭く、波を遮蔽する岬や島に乏しく湊としての地形に恵まれていなかったが、城下町で行政の中心であったことから場所請負の大商人の店が軒を連ね、蝦夷地の中で最も殷盛であったし、江差は西蝦夷地の鰊漁の基地として発展した。

 箱館(明治2年以降、函館)は、1799(寛政11)年に蝦夷島が幕府の直轄となり奉行所が置かれて以降、津軽海峡の連絡航路及び国内沿岸航路の拠点港として発展した。1880(明治13)年頃、北海道の移出入額のうち函館がその6割を占めていた。魚粕・昆布・塩鮭・干アワビなどの水産物が移出され、移入ではコメを中心に農産物が3~4割、生活必需品や漁場用品などの生産用具を中心とした工作物が5~6割を占めていた。享和年間(1801~1803)に箱館山麓の海岸線に造られていた街並み(図1)は、1882(明治15)年には図2にように砂嘴に掘られた水路(願乗寺川)に沿って亀田方面に伸びていった。亀田川から引かれた水路は、港の堀割に繋がっていて上水と水運に使われた。
 明治20年代に入ると、函館は港湾商業都市として発展期を迎え、市街地が拡大し都市形態を大きく変えていった。その契機となった事業は亀田川の流路切替工事(明治19年着工)、願乗寺川の埋立工事(明治21年着工)、函館港改良工事(明治29年着工)である(図3)。これら一連の工事は、年々浅くなる函館港の問題を抜本的に解決し、長年の宿望であった造船用ドックを建設することを目的としていた。すなわち、函館港に土砂を運ぶ亀田川の流れを港外に導き、願乗寺川を埋め立てて道路とし、港内を浚渫して発生した土砂を使って市街地と造船用ドックを建設した(図4)。
 函館経済界においては船渠会社、セメント会社とともに、明治20年代からは海運業を中核として産業資本が形成されていった。
 函館の汽船船主が所有する汽船は、道内はもちろん、全国各地に航路を展開し、その大半が不定期航路であった。函館を拠点として海運業が発展すると、それと密接不離な関係にある港湾運送業・保険業・保険代理業も盛んになった。西部地区の臨海部には海運業や海産商の建物、そして営業倉庫が集中した。明治20年代に設立された初期の銀行は為替・公金取扱を主な業務としていたため、倉庫・税関などがあった末広町を中心に開設された。特に1895(明治28)年7月に日本銀行が、大阪以外になかった支店を函館に置いた意義は大きかった。従来、資金決済にあたって現金輸送の煩雑さと危険性を伴っていたものが、支店開設により為替作用の十分な発揮を見るとともに手形割引の制度も行われ、函館金融が初めて対物信用から脱して対人信用の機微に活躍することを得て各銀行の営業ぶりが一変した。
 1891(明治24)年9月に日本鉄道会社によって上野・青森間の鉄道が全通し、青函航路の旅客、貨物が急増した。

図1 享和年間函館市街図(函館区史)

図2 函館真景(明治15年)(市立函館図書館蔵)

図3 函館港市街全図(明治29年)(市立図書館蔵)

図4 函館港改良工事埋立予定図(函館船渠株式会社四十年史)

 一方、小樽では1882(明治15)年に札幌を経由して幌内炭鉱まで鉄道が敷かれ、さらに1892(明治25)年には北海道炭砿鉄道が岩見沢と室蘭間の営業を開始した(図5)。前者によって小樽から、後者によって室蘭から石炭が輸移出されるようになり、鉄道の延伸が両港町の発展の端緒となった。1892(明治25)年、日本郵船は函館・神戸線(横浜経由)を小樽まで延長し、小樽と神戸を終起点とする東廻りと西廻りの定期航路が完成したので、小樽の物流拠点としての地位が高まった。

図5 明治30年までの鉄道路線図(「北海道の鉄道」)

 また1889(明治22)年に特別輸出港に指定されて以降、上海、天津、漢口、大連等の清国航路や朝鮮との航路が開かれた。1901(明治34)年には小樽・網走間の航路が開設され、小樽・増毛(ましけ)・枝幸(えさし)・雄武(おうむ)・紋別(もんべつ)・常呂(ところ)・網走が不定期航路で結ばれ、道内における流通拠点としての重要性が高まり、小樽は函館と商権を2分するまでに発展した。それに伴い流通関連の銀行、商業、海運、倉庫業などの会社が設立された。大規模な北前船主はいずれも小樽に倉庫を所有した。小樽の海運業界に大きな地歩を占めていた北陸の大家(おおいえ)七(しち)平(へい)、広海(ひろうみ)二(に)三郎(さぶろう)、右近(うこん)権左衛門(ごんざえもん)などは自己の積荷を保管する倉庫を有していたが、営業倉庫については1891(明治24)年頃から始まり、貨物の増加に伴って発展し、日清戦争後の好況下において小樽倉庫(1895年設立)、広谷倉庫(1897年設立)、高橋倉庫(1897年設立)、藤山倉庫(1899年設立)等の倉庫会社が設立された。小樽の商業の発達につれ、港に沿った下町地帯に問屋街が形成されていった。
 小樽港の北海道開拓の拠点としての重要性が増すにつれ、近代築港の必要性が高まった。1897(明治30)年、わが国最初の外洋防波堤が北海道庁技師廣井勇の設計・監督により着工され、1908(明治41)年に北防波堤が竣工した(写真1)。

写真1 北防波堤建設中の小樽港(小樽市博物館)

 その間に石狩原野の開拓が進み、さらに図6に示すように鉄道は北は旭川から名寄まで、東は釧路まで延伸され、小樽に集散する貨物が増加する一方であったので、小樽港を拡張するために北防波堤が竣工するとすぐに南防波堤の建設が開始された。
 日露戦争後、貨物の急激な増加に伴って倉庫料が暴騰した。小樽では1898(明治38)年に日本郵船の荷捌き倉庫が完成した。1907(明治40)年から翌年にかけ白鳥、共同、岡崎、稲積、板谷、中山合名等の各倉庫が設立され、その規模は1900(明治33)年の161棟、1万坪余から1908(明治41)年には198棟、2万坪近くに達した。
 金融機関は日本銀行の出張所のほか三井銀行、北海道拓殖銀行、日本商業銀行、百十二銀行、北海道商業銀行などの各支店が開設されていた。 

図6 旅客貨物通貨数量図表(明治43年度)(「北海道鉄道百年史」)

 1904(明治37)年10月には、北海道鉄道会社により小樽・函館間の鉄道が全通した。その後、国は日本鉄道会社を買収し1908(明治41)年に田村丸と比羅夫丸を青函航路に就航させた。1910(明治43)年には、停車場付近の海岸から123mの沖に延長27.8mの岸壁を有するT字形の木造桟橋(通称「大桟橋」)が完成し、連絡船を横付けした(図7)。それまで艀を利用していた旅客は、直接乗船・下船ができるようになった(写真2)。さらに国鉄は旅客と車両を同時に輸送するため、若松埠頭を建設し1925(大正14)年から供用した。 

 函館は、幕末から明治にかけて樺太における鮭・鱒の基地として、また樺太産及び北海道産の鮭・鱒の集散市場として展開してきたが、明治40年代に入ると露領漁業の本格的展開と相まって飛躍的に発展した。
 大正期、北海道から管外に移出される塩鮭鱒の9割が函館経由であった。函館には北洋漁業や樺太の鰊漁の経営者が居住し、水産物取引の中心となった。また管外からの移入についても全道の半分以上のシェアを占め、中継基地であるとともに消費市場としても重要な地位にあった(図8)。

 一方、小樽については、日露戦争以後、南樺太が小樽の商圏に入り、中国、朝鮮、沿海州との貿易が伸びた。小樽を起点とする樺太の命令航路は西海岸に5線、東海岸に3線あり、日本郵船、大阪商船の2大海運会社、小樽の山本久右衛門、増毛の本間合名会社が運航したが各船の発着時刻が不統一で交通機関としての機能を果たせなかったので、1914(大正3)年に樺太庁の指導で北日本汽船会社が創設され函館を起点、小樽を中継して運行された。小樽は樺太への重要な門戸となり「小樽港の盛衰を握るものは樺太である」といわれた(「小樽市史」)。

図8 明治末期から昭和初期の小樽・函館の卸売商圏(北海道地方都市経済圏の研究(2))

 第一次世界大戦勃発により欧州が食料・資材難に陥ったことから、北海道の豆類、澱粉類は欧州やその殖民地に大量の販路を見出した。さらに道内で伸びてきたパルプ、製紙、製粉、缶詰、製糖、べニヤ等の諸工業の製品が小樽港から輸移出されるようになった。政府の命令によって日本郵船その他の船舶が定期的に小樽港に寄港するようになり、ピーオーなど外国船社も定期航路を開設した。道内及び樺太で生産された雑穀、水産物、木材等を集荷して輸移出し、道内及び樺太で消費されるコメ・酒・味噌などの食料品、織物、化学薬品、日用雑貨などを輸移入した。それらの商品の取扱はほとんど三井物産、三菱商事、鈴木商店の3大商社及び地元の小樽商人を介して行われたので小樽の商業はさらに発展した。小樽の雑穀商のほか、府県の輸出商も競って小樽に支店・出張所を設置して取引にあたり、三井銀行、三菱銀行など道外の主要銀行も新たに支店を設けた。その頃、堺町の一部に輸出商が軒を並べる「貿易小路」と称する通りが出現したという。漁業貿易は専らロシア領に対して行われ、漁業用品を輸出し漁獲物を輸入した。
 小樽は商都として繁栄の一途をたどり、1939(昭和14)年頃にピークに達した。特に樺太との海運は小樽を中継港として全国各地と定期航路で結ばれ、樺太材、雑穀、海産物、石炭等の輸移出が行われ、外国諸港との定期航路も多かった。1929(昭和4)年2月には英国領事館が開設した。銀行の本店・支店の数は20行に及び道内の金融の中心となった。

3.室蘭・釧路・留萌・稚内

 室蘭は北海道開拓の当初から天然の良港を擁する重要拠点として認識されていたが、函館―室蘭―札幌を結ぶ札幌本道(1873年完成)が建設されたものの道都札幌との距離が長く期待通りには利用されなかった。さらに2回にわたって入植した屯田兵村は泥炭地であったために作物が育たず棄て去られ、室蘭はその潜在能力を生かせずにいた。発展の契機となったのは北海道炭砿鉄道の室蘭延伸であった(図5)。1892(明治25)年に北海道炭砿鉄道が営業を開始するとすぐに石炭積出量で小樽を抜き、1906(明治39)年に鉄道国有法によって北海道炭砿鉄道の施設が国に買収されると、その資金で日本製鋼所と輪西製鉄所を設立して室蘭の産業発展の基礎をつくった。さらに同時期、苫小牧に進出した王子製紙が紙の生産を開始し、室蘭港を利用するようになり商港としても繁栄していった。

写真3 大正末期の輪西製鉄所(室蘭港湾建設史)

 釧路の知人(しれと)岬は波を遮るものがほとんどなく地形的には泊地に適さなかったが、北海道の太平洋岸は室蘭より東方には400km以上港湾がなかったので、開拓使が設置されて以来、寄港地として知られていた。1909(明治42)年に釧路・帯広間の鉄道の敷設とタイミングを合わせ築港が始まったが(図6)、街の中心部を流れる釧路川が吐き出す土砂によって港が浅くなる宿命的問題があり、その解決のため3度にわたって港湾計画の変更を行わなければならなかった。それに加え夏季は濃霧、冬季は厳寒な気候のために港湾工事は順調に進捗しなかった。その後1920年に発生した釧路川の大洪水を契機として翌年から釧路川を上流で切り替える工事が始まり1931(昭和6)年に通水した。この工事によって釧路は釧路川の洪水と港の埋没から解放され、さらに川の両岸を埋めて岸壁を整備し、外港を拡張することにより道東の農林産業・漁業の拠点として繁栄して今日に至っている。

図9 第二期拓殖計画における釧路港修築平面図

 留萌港の後背地は天塩国全体に及び、南方24kmの小山脈を越えれば石狩平野に通じ、鉄道を敷設すれば農林産物の搬出が小樽港を利用するより有利になることから、1910(明治43)年に留萌・深川間の鉄道が開通すると築港に着手した。留萌港の計画は防波堤によって守られる外港と内港、それに接続する町営による副港の建設であったが(図10右)、留萌町は独自に留萌原野を蛇行する留萌川(図10左)をショートカットして、原野に市街地を造る構想を進めた。そのための経費は町債を募って集めたが、港の建設は難航を極め港に進出する企業の立地が遅れたため町債の返済が滞った。1932(昭和7)年に工事が完成してのち、臨港鉄道が敷かれ石炭積出施設が整備され、漸次貨物量が増加していった。

 稚内はサハリン島への渡航地であり、従来は北見沿岸を航行する船舶の寄港地であった。1922(大正11)年11月、音威子府(おといねっぷ)・稚内間の鉄道が全通して函館及び室蘭に達する鉄道が開通し、さらに翌年には稚内・大泊(おおどまり)間の航路が開設された(図11)。稚内築港は鉄道敷設が稚内に到達するタイミングに合わせ1920(大正9)年に着手した。一本の防波堤と防砂堤を建設し、防波堤の中間部に岸壁を設けて稚泊航路の連絡船を接岸させる計画であった。この防波堤は強い風が吹くと越波が激しく連絡船の乗降客が移動するには危険が伴うことから、天蓋を有する高さ11.4m、幅15.2m、長さ427mの防波堤ドームを建設して越波を防ぎ、港内側に鉄道線路を敷設し岸壁を設けることにした(写真4)。このドームは稚内市民の熱意により1980(昭和55)年に再建され、北海道土木遺産に指定された(写真5)。

図11  1916(大正5)年までの鉄道路線図(北海道の鉄道)

結び~港町の発展を支えた築港

 これまで述べてきたように、明治から1945(昭和20)年までは主に港湾と鉄道の建設によって開拓が進められた。その過程を道内の市街地分布によって見ると、図12のように港町から内陸に伸びる鉄道に沿って市街地が形成されている過程が理解できる。

図12 北海道の年次別市街地分布(都市の形成と階層分化)

 第一期拓殖計画の目玉であった港湾建設は、港湾の世界的権威であった廣井勇博士の全面的なバックアップがあって初めて可能となった。わが国最初の外洋防波堤である小樽港北防波堤が竣工した後も、引き続き道庁顧問として北海道の港づくりを指導したのは、外洋防波堤の建設が極めて難事であったからに他ならない。開拓に欠かせない築港に廣井勇博士を得たことは、北海道民にとって誠に幸運であった。

萩原建設株式会社 特別顧問 関口信一郎

1950年岩手県生まれ
工学博士(2001年)
北海道大学大学院工学研究科修了。旧北海道開発庁(現国土交通省)入庁。旧運輸省(現国土交通省)港湾技術研究所、水産庁漁港部、北海道開発局等に勤務。現在、萩原建設工業株式会社特別顧問。著書に『シビルエンジニア廣井勇の人と業績』(2015)、『北海道みなとまちの歴史』(2020)。