【新緑に包まれた山線鉄橋】
風景が、遠い日の記憶を唐突に呼び覚ますことがある。支笏湖畔の「山線鉄橋」を初めて目にしたときもそうだった。
私は幼少期を道北の寒村で過ごした。集落の川にも赤銅色の鉄橋が架かっていて、石炭列車が轟音と共に疾駆するたび、圧倒的なエネルギーに興奮し、河原で身を震わせたものだった。長じてみれば、それは切ないほどに小さなものなのだが、幼な子には途轍もなく巨大で重々しい存在感を放っていた。
山線鉄橋を見つめるうちにそんな記憶の断片が蘇ったのは、緑の木々と青い湖面に囲まれた鉄橋の朱の色が、五感の底に眠っていた何かを刺激したからだろうか。
今は散策路の歩道橋として静かな時を刻む山線鉄橋にも、かつては轟音が響いていた。
英国の技術者ポーナルの設計によるこの鉄橋は、元々は1899(明治32)年に北海道官設鉄道上川線(現在のJR函館線)の砂川~妹背牛間に架けられた第一空知川橋梁だった。斜材をX字型に組んだ「ダブルワーレントラス橋」は当時の先端技術で空知川を跨ぎ、明治期の北海道の開発を支えていたのである。
【湖畔に映えるリズミカルなダブルワーレントラス】
1923(大正12)年の架け替えの際、苫小牧に巨大工場を持つ王子製紙に払い下げられ、支笏湖~苫小牧間の軽便鉄道(通称「山線」)の湖畔橋として現在地に移設された。ここでは発電所の建設資材や製紙用原木の搬送だけでなく、旅行者にも利用されて湖畔観光にも一役買ったという。1951(昭和26)年の軽便鉄道の廃止と共に鉄橋としての役目を終えた後、千歳市に寄贈され、1994(平成6)年からの大規模修復を経て今に至っている。
現存するものとしては道内最古の鋼橋で、土木学会の「選奨土木遺産」にも認定されている。最初の架橋から120余年。この橋がたどった時間の積層と北海道の変遷とに思いを巡らせば、言葉を語らぬ鉄橋から、北の大地の歩みを雄弁に物語る「時代の証人」としての顔も浮かび上がってくる。
<山線鉄橋へのアクセス>
支笏湖畔温泉 支笏湖ビジターセンターから約200mの湖畔・千歳川源流点
文・写真
秋野禎木(あきの・ただき)
元朝日新聞記者/現北海道大学野球部監督
1959年生まれ、北海道小平町出身
ダブルワーレントラス橋とは?
「トラス橋」は鋼材などの部材を三角形に繋いだ「トラス構造」で橋桁を補強した橋で、「ワーレントラス」「プラットトラス」「ハウストラス」など様々なタイプがあります。山線鉄橋の「ダブルワーレントラス」は、逆W型トラスのワーレントラスと異なり、斜材を全てX字型に交差させている点が特徴です。強度がワーレントラスより高いので、明治時代の比較的長い橋でしばしば採用されましたが、多くの鋼材を要するため、大正時代以降はあまり使われなくなりました。
ダブルワーレントラス
お雇い外国人“チャールズ・ポーナル”
山線鉄橋の設計者チャールズ・ポーナルは英国人の土木技師で、明治政府の招へいで来日した「お雇い外国人」の一人です。1882(明治15)年~1896(明治29)年の14年間にわたって日本の鉄道建設に尽力しました。
官営鉄道の建設に関しては、1870年に来日し日本の鉄道建設の礎を築いたとされるエドモンド・モレル(1年余りで病死)、その後を継いで日本の鉄道網を完成させたリチャード・ボイルはともに英国人。ポーナルもその流れをくんで、山線鉄橋の他にも現役の鉄道橋としては 国内最古(1885(明治18)年竣工)の最上川橋梁(もがみがわきょうりょう;山形県寒河江市)や1886(明治19)年竣工)の旧揖斐川橋梁 (きゅういびがわきょうりょう;岐阜県大垣市)を手掛けました。
ちなみに、山線鉄橋の鋼材には製作した英国の鉄鋼会社 ”PATENT SHAFT AXLET REECL” の社名が刻まれ、英国との縁を今に伝えていますが、同じダブルワーレントラス橋の旧揖斐川橋梁も同社製だったそうです。