長引くコロナ禍は様々な社会的、経済的問題を引き起こしていますが、物流に関しても様々な影響を与えています。
身近な話としては、外出自粛でネット販売が急増し、トラック運転手の不足が問題化していますし、グローバルには、新型コロナの拡大・蔓延期に世界的な消費縮小や部品の調達難による完成品生産の低減などで国際物流が縮小するという問題が生じました。そして、最近では、コロナ禍から脱し経済回復に転じた中国が欧米への輸出を急増させた結果、世界的なコンテナ不足やコンテナ船の入港ラッシュになった米国主要港で深刻な沖待ち渋滞を起こすといった想定外の事態も生じています。
これらの問題のコロナ禍に起因するものではありますが、そもそも物流は人々の生活や社会、産業、技術の変化に敏感に反応するデリケートな代物と言えそうです。
そこで、物流の歴史をその時代背景とともにたどってみると面白い発見があるかもしれません。
ところで、物流とは、生産物が生産者から消費者に届けられるまでの一連の流れですが、英語ではlogistics(ロジスティックス)です。ロジスティックスとは、元は軍事用語の「兵站(へいたん)」を意味し、戦闘部隊の後方支援としての物資の配給、施設の整備や衛生などを指していましたが、軍隊に限らず一般的な物流(狭義では「物流を最適化するためのシステム」)も意味するようになりました。
日本の「兵站」の歴史は、古く古代まで遡れますが、「物流」は、少し新しく平安時代がその始まりとされています。
平安後期から鎌倉時代頃に「問丸(といまる)」が、主に荘園からの年貢米の運送、倉庫、委託販売業を行い始め、鎌倉末期には領主から独立して仲介・運送業者として河川や港での物資の輸送・管理を行うようになりました。
一方、鎌倉末期頃から「馬借(ばしゃく)」や「車借(しゃしゃく)」も発達しますが、これは問丸のような水運ではなく、牛や馬を使って荷物を運ぶ陸運の物流業者でした。このような物流業者の誕生の背景には、近畿・越前・若狭などの地域での貨幣経済の成立と農業技術の進歩に伴う荘園での余剰物資の産出がありました。
そして平安後期以降、国家の体制が整うと中国の宋、元、明といった歴代の王朝や蝦夷(現在の北海道)、琉球(現在の沖縄)との貿易が外航海運によって盛んになりました。
さらに江戸時代には、当時世界一と言われる100万都市江戸に大量の消費物資を運ぶ必要から物流インフラが整えられました。この時代には、江戸五街道も整備されましたが、これは参勤交代などの人の往来や飛脚による郵便・小口宅配のためのもので、本格的な物流を支えたのは東廻り回船、西回り回船などの航路と河川舟運でした。そして、海上輸送路の設定や港湾の整備、灯台の設置などのインフラだけではなく在庫管理や品質管理、海難防止のための入港税免除や海運遭遇時の補償などの制度も整えられました。また、内陸部では河川改修や運河の開削が進められ、問丸から発展した河岸問屋(かしどんや)が物資の輸送、仲介業者として活躍しました。
この水運の時代を変えたのが明治以降、文明開化により欧米の様々な近代科学技術とともに我が国に導入された鉄道でした。北海道の日本遺産「炭鉄港」(空知(炭鉱)、室蘭(鉄鋼)、小樽(港湾)をつなぐ鉄道を舞台にした近代化産業遺産群)は、その象徴的な事例と言えるでしょう。空知の炭鉱から掘り出された石炭は鉄道で運ばれ、小樽港から本州に積み出され、また室蘭では製鉄の原料として使われ、明治期の我が国の殖産興業に寄与しました。
この鉄道輸送に取って替わったのはトラック輸送ですが、その最初の引き金になったのが1923(大正12)年の関東大震災でした。震災後、壊滅的な被害を受けた東京で復興都市計画に基づく幹線道路が整備された結果、市内の短距離・小口輸送にトラックが使われるようになりました。
戦後は急速な自動車の普及と道路の整備、舗装の進展、さらには昭和40年代から始まった高速道路の整備がトラック輸送の高速化と車両の大型化を可能にし、全国的な路線トラック輸送網が形成されると、一気に貨物自動車輸送が物流の主役に躍り上がりました。
時代は平成、2011(平成23)年の東日本大震災は、物流の計画や政策に大きな課題を突き付けました。「平時の物流」だけでなく「有事の物流」についても計画的に整備しておく必要が提起されたのです。
突然、襲来したコロナ禍は良くも悪くも我々の社会に大きな変化をもたらしましたが、これからの物流はどうあるべきか、その「レジリエンス(回復力、しなやかさ)」が試される時代になりそうです。
(参考資料:「日本における都市物流政策の過去・現在・未来」(国際交通安全学会誌 Vol.41,No.1:苦瀬博仁)
2022年2月第2号 No.114号
(文責:小町谷信彦)