日本の人口が減少に転じてから早20年、総人口はピーク時より400万人近くも減少してしまいました。加えて高齢化も進み、地方の過疎問題は一層深刻になっていますが、明るい話題がないわけではありません。
移動が困難な高齢者の買物や薬の入手を自動運行のドローンによって家まで搬送する試みが進んでいます。トラックのドライバーの不足がひっ迫する中、買物難民にとっては救世主となりそうです。
しかし考えて見ると物の移動は、海外は別として、国内では道路や鉄道といった陸路が中心で、空はこれまでほとんど使われていませんでしたが、道の整備や維持の必要のない大変便利な交通路と言えそうです。そういう意味では、太古の昔も海や川といった自然の交通路を利用した水運が盛んだったのは、もっともなことです。
ところで、皆さんは黒曜石という石はご存知でしょうか?
最近の若い方々には、魔除けのパワーストーンとして珍重されているようですが、真っ黒に艶光りしたガラス質の石(流紋岩)です。そして、割ると断面が鋭い刃物のようになるため、先史時代から世界各地でナイフや鏃(やじり)などの石の刃物として使われました。青銅や鉄から道具を作れるようになる前の石器時代の人々にとって、この黒曜石は生活や戦いに欠かせない重要な資源だったのです。
ちなみに、繁栄を誇ったメキシコのアステカ帝国は、15世紀に鉄の武器を持つヨーロッパ人に滅ぼされてしまいますが、それまで強大な軍事力で周辺部族を支配できたのは、この黒曜石の鉱脈を豊富に保有していたためとも言われています。
この黒曜石、日本でも後期旧石器時代から鏃などに使われました。そして、大きな産地は3か所でしたが、産地ごとに成分が異なることから、出土した黒曜石の石器の成分分析をすると古代の交易ルートが推測できました。
特に興味深いのは、一大産地の神津島(こうずしま)です。この島は伊豆七島の一つで、本州から200㎞近く離れた太平洋上に位置するのですが、ここの黒曜石が船で関東・中部地方の太平洋岸に運ばれ、広く長野や日本海側の能登半島にまで広がったことが、遺跡の出土品の分析から明らかになったのです。そして一説には、約4万年前にスンダランド(現在のマレー半島からタイ周辺)の海岸部を船出した海洋航海民が、フィリピン、台湾を経て九州、四国、本州の太平洋沿岸地域に拡散、移住する過程で、神津島を発見し、黒曜石を本土にもたらしたというのです。これが事実であれば、黒潮に乗って太平洋をダイナミックに移動したこの大航海は、エーゲ海周辺での1万2,000~1万年前の交易活動が世界最古の海洋航行という定説を覆す画期的なことなのです。
日本人の起源は「黒潮の民?」という日本人論の原点にも関わるロマン溢れる話ですね!
余談ですが、民俗学の父とも称される柳田國男は亡くなる前の年に著した「海上の道」で、日本民族の祖先は稲作技術を携えて遥か南方から海を北上し沖縄の島伝いにやって来た、という仮説を提起しました。これは、柳田國男がまだ青年時代に聞いた「伊良湖岬(愛知県)にヤシの実が流れ着いた」という話に着想を得て、生涯温め続けていた構想の集大成したものと言われています。
ちなみに、柳田青年の友人だった島崎藤村がその話に感動して詩にしたのが、私の子ども時代の小学唱歌「椰子の実」とのこと。なぜか私は、ユーミンの「瞳を閉じて」を聞くと、「手紙を入れたガラス瓶を海に流そう」「霧が晴れたら名もない島が見えるかもしれない」というフレーズと藤村の詩の「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ」の情景が被ってしまうのですが、実はユーミンが思い描いていたのは、南太平洋の小島ではなく、江上天主堂で知られる奈留島(なるしま;五島列島)だったとのこと。
海の道を遥々舟で渡った古代人が、潮騒(しおさい)にロマンを感じていたかどうかは確かめる術もありませんが、大洋の小島で黒曜石という宝を見つけた時は、きっと胸を躍らせたに違いありません。
2024年11月第2号No.156
(文責:小町谷信彦)