感染症と広場
コロナウイルス感染症の拡大が収まりません。今から約100年前に世界中で猛威を振るい、世界の4分の1の人々が感染、死者は1,700万人から5,000万人とも言われるスペイン風邪の悪夢の再現が危惧されています。
ただ、スペイン風邪の場合、発症地米国が第一次世界大戦の最中で、国家にとって不都合な報道をすると最悪20年の投獄という日本の戦前並みの報道統制により、感染症の被害実態がほとんど自国民にも世界にも知らされず、対策も講じられることなく世界に蔓延してしまったということで、今回と状況は異なります。
しかし、米国で始まったのに「スペイン風邪」と呼ばれているのは何故でしょうか?
それは、欧州各国でも多くの死者が出ましたが、多くの国が戦時中だった中、中立国で戦争に加わっていなかったスペインだけが事実を正しく報道したため、突出して感染者が多いという誤解を生み、歴史的な汚名を着せられたのです。何とも割の悪い話ですね。
しかし、流行病の悲劇は、医学も衛生観念も発達していない昔は、当然のものとして繰り返し起こりました。
圧倒的な武力と富により文化を誇り繁栄を極めたローマ帝国は、世界史の教科書ではグルマン民族の大移動によって滅びたとされていますが、実は2世紀の皇帝マルクス・アウレリウスの時代に1,000万人以上の死者を出した天然痘の大流行が衰退の大きな引き金を引いたとされています。
中世に入ると、皮膚が黒ずんで死に至ることから黒死病として恐れられたペストが度々大流行しました。特に14世紀は断続的にペストの流行が続き、人々は必死に神に祈りますが聴きとげられず、それは神聖ローマ帝国の皇帝をも屈服させ絶大な権力を誇ったローマ教皇と教会の権威を失墜させました。
さらに、封建領主からの年貢の取り立てで弱い立場だった農民たちも多くがペストで亡くなり、労働力の不足のため農民に賃金を与えて働かせたことから、農民は領主に対して力を持つようになりました。この社会の力関係の変化が「ルネッサンスによる暗黒の時代からの解放」に繋がったのですから「歴史の裏に流行病あり」と言えるかもしれません。
そして、近代に入っても流行病は繰り返しますが、医学と科学技術の発達により、いずれ流行病は克服されるだろうという楽観的な見方が支配的でした。
ところが、現代に至るも撲滅に成功したのは天然痘やハンセン病などごくわずかで、20世紀にはパンデミックが3回も勃発、そして今回の新型コロナウイルスです。
我々にとっては未曽有の非常事態宣言、そして、世界中で様々な問題が山積し、未来への希望も見失われがちな昨今、世も末だと思われている方は少なくないと思いますが、聖書は「終わりの時」の兆候として、世界各地での地震、内戦、食糧不足とともに流行病の頻発を預言していました。
もちろん、過去にも流行病の悲劇に絶望し、終わりの時だと考えたクリスチャンは数多くいたようですが、親殺し・子殺し、児童虐待、オレオレ詐欺等々、現代の世相と重ね合わせると、自然な愛情を持たず、自己中心的、人を簡単に裏切るといった終わりの時代の人々の特徴とも合致し、いよいよという感じもしてきます。
終わりの時の最後は「人々は、「平和だ、安全だ!」と言っている時に、突然滅ぼされる」と預言されていますが、近々それが現実のものにならないことを願うばかりです。
さて、話は変わりますが、皆さんは「ペスト記念柱」をご存じでしょうか?
残念ながら私はウィーンには行ったことがないので写真でしか見たことがありませんが、旧市街のグラーベン広場に代表的なペスト記念柱があり、その歴史と芸術性から人気の観光スポットとなっているようです。
1679年に当時の皇帝レオポルド1世によって建てられたこの記念柱、何の記念かと言うとその年に猛威を振るったペストの収束を記念したものとのこと。皇帝がひざまずいて神に敬意と感謝を表している様子が彫像として刻まれています。
ペスト記念柱は、他にも同じオーストリアのリンツやチェコのチェスキークルムロフなど、あちこちの教会前広場で見られるようで、教会の権威を失墜させた天敵に対する勝利の願いも込められていたのかもしれません。
このグラーベン広場のペスト記念柱、お披露目の日には、ペストの終息を祝って多くの人々で広場は賑わったに違いありません。
町の広場は、やはり人が主役です。しかし、今年は、3密を避けるということで、どこの広場も人影まばら。
早く広場に多くの人が集まり、過ごせるようになって欲しいものです。
(文責:小町谷信彦)
2020年4月第3号 No.75号