はじめに
4月から朝ドラ100作目の“なつぞら”がはじまりました。東京で戦災孤児となった“なつ”が十勝で酪農を営む柴田家に引き取られて成長する物語です。これは、脚本家の大森寿美男のオリジナル作品です。
ドラマの中で、随所に十勝の酪農に関する場面が出てきて、北海道酪農を研究してきた者にとって興味深く見ています。そこで、4月末までのドラマに出てきたいくつかの場面について考証してみました。
1.ドラマの舞台
ドラマの舞台は帯広市の東南部、日高山脈に向かう地域であると想像できます。理由の一つは、“なつ”が現在の帯広農業高校に自転車で通学していることです。二つ目は、高校の演劇大会当日、馬車で向かった柴田家の娘が、途中から「トテッポ」で会場にきたと言っていることです。これについては、後でお話します。
2.団体入植と戦後開拓
北海道の開拓には二つの山があります。一つ目は、明治20年代以降に本格化した「団体入植」です。これは、内地の人が団体を組んで入植する方式です。入植地に出身地の地名をつけることが多かったため、各地に内地の地名が残っているのです。
入植の前に開拓適地を選定し、測量して区画を設定する必要がありました。そこで北海道庁はアメリカの「タウンシップ制」にならった「殖民地選定事業」を全道で実施しました。300間(約540m)方眼の正方形が地形図にみられますが、これは、その区域でこの事業が行われたことを示しています。また、その地域の住居表示が○号○線となっているのも、そのためです。農家には1戸当たり5haという、当時の内地では考えられない大面積が配分されました。このため、内地の密居集落とは異なる散居という北海道独特の農村形態が生まれたのです。
二つ目の山は、戦後開拓です。その先がけとなったのがドラマに出てきた「拓北農兵隊」です。これは、空襲で焼け出された東京の避難民を「北海道疎開者戦力化実施要綱」に基づいて各地に入植させたものです。しかし、彼らには劣悪な土地しか残されていませんでした。それで、すでに入植していた人を「既存さん」と呼んで、自分たちとの違いを強く意識したのです。
拓北農兵隊については、開高健の『ロビンソンの末裔』に描かれています。“なつ”のじいちゃんが、溝を掘って水を流さなければならないと言っていたことも、そこに出てきます。
これに引き続いて、海外からの引揚者や困窮者が次々と「開拓事業実施要綱」に基づいて北海道各地に入植しました。団体入植の方式をほぼ踏襲し、1戸当たり5haが配分されましたので、やはり散居形態をとりました。柴田家の住宅と畜舎がポツンと建てられているのもそのせいです。
3.十勝の開拓は火山性土との闘い
十勝の開拓は、北海道の他の地域とは違った特徴があります。それは、民間主導で開拓が進められたことです。例えば、依田勉三が率いた「晩成社(帯広市)」、二宮尊徳の孫の二宮尊親による「興復社(豊頃町)」、蘭方医の関寛斉による陸別開拓などが有名です。そのため、道内各地にみられる屯田兵村は一つもありません。それが、十勝農民の独立不羈の精神的風土となっているように思います。
それ以降は、十勝も集団入植と戦後開拓が他の地域と同様に進められましたが、十勝の開拓は火山性土との戦いでした。“天陽君”一家が入植したところも火山性土で、容易に耕地にならないところです。排水と土壌改良が不可欠でした。
札幌生まれの久保栄が十勝の農村を舞台に描いた劇『火山灰地』では、農業試験場長が土壌分析と窒素、リン酸、カリの三要素試験に取組むうちに、化学肥料会社の壁にぶつかっていく苦悩が、十勝の農村の状況とともに語られています。
4.貸付牛制度
ドラマでは、“天陽君”の家が農協から牛を借りたことが出てきました。これは、通称「道有牛貸付制度」といわれるもので、北海道が保有する母牛を市町村か農協を経由して、乳牛を飼っていない農家に5年間貸し付け、生まれた子牛を返納すれば、母牛の払い下げが受けられるという、北海道酪農の形成にとって忘れてはならない制度です。
度重なる冷害に苦しむ農家に牛を導入し、経営の安定と地力の培養を図ろうとしたのです。このような経営を「有畜経営」といい、北海道では「混同経営」又は「混同農業」と称しました。
中国の瀋陽農業大学の客員教授をしていたとき、貸付牛制度の紹介をしたところ、中国農民は借りた牛を返さないから無理だといわれ、苦笑したことを覚えています。
5.封筒乳価
農協に勤める父さんは、零細な酪農家の牛乳を農協がまとめて集めて乳業会社に販売することを計画しました。しかし、“なつ”のじいちゃんは、はじめは単独で販売するとして反対しました。
このドラマの時代である昭和30年代以降、戦後の復興から経済成長期を迎え、牛乳・乳製品需要が高まり、雪印、明治、森永などの大乳業会社は工場機能の増強を図りました。中小の乳業会社も乱立しました。その結果、乳業会社による集乳合戦が起こりました。
資金力のある乳業会社は、集乳量を確保するため、大規模酪農家には乳価にプレミアムをつけ、それを封筒に入れて渡すことが広まりました。それで「封筒乳価」と言われました。ドラマでも乳業会社の職員が大規模酪農家である柴田牧場の母さんに、金の入った封筒を渡そうとする場面が出てきました。
一方、零細経営の“天陽君”の家では、乳脂肪率が低いと偽り、安い乳価で買おうとします。このような不合理を、父さんは酪農家がまとまることで打開しようとしたのです。
このような状況は、酪農経営と乳業会社の健全な発展の上での大問題です。政府もこの事態を重くみて、昭和36年に『畜産物価格安定法』を制定し、原料乳に安定基準価格を決め、乳業会社がそれ以下で買い入れる場合は乳価の引上げを勧告することにしました。
それでも実効があがらないため、昭和40年に『加工原料乳生産者補給金等暫定措置法』が制定されました。これは、酪農家が再生産に必要な価格と、乳業会社が採算のとれる水準の買入価格との差額を国が生産者に支払うというものです。ですから「不足払い制度」と言われました。北海道は消費地に遠いため、飲用向けではなく、加工原料向けを主体としていますから、主として北海道のための法律と言えます。同時に、ホクレンが牛乳を一元集荷し、各乳業会社に牛乳を配分する仕組みが生まれました。これで、酪農経営を安定させるとともに、安心して経営規模を拡大することができるようになりました。
さらに、十勝管内の8つの農協が中心となって昭和42年に、農民資本の「北海道協同乳業」を設立しました。その後、根釧、網走、宗谷の農協からも出資を受け、各地区に工場を設置し、昭和61年には社名を「よつ葉乳業」に変更しました。
このように、十勝の酪農民の取組みは、北海道の酪農・乳業の発展に大きく貢献したのです。“なつ”の父さんの活動は、その先鞭をつけるものだったのです。
6.「勝農」演劇部
成長した“なつ”が通ったのは、「十勝農業高校」ということになっていますが、これは実在していません。モデルとなったのは、現在の「帯広農業高校」です。同校は大正9年に「十勝農業学校」として創設され、昭和25年には「川西農業高校」となり、昭和32年に現在の名前となりました。“なつ”が通学したのは昭和30年代と設定されていますから、「帯広農業高校」ということになります。映画化されたアニメの「銀の匙」のモデルにもされました。以来、連綿として人材を輩出し、十勝農業の発展に寄与してきました。
ドラマでは、「勝農」という呼称が出てきますか、これは農業高校になっても「十勝農業学校」時代の略称が使われていたからです。今でも「帯農」と言わず、「勝農」と呼ぶ人もいます。
“なつ”は演劇部で活躍しますが、演劇部顧問の倉田先生のモデルは、川西農業高校元教諭の海保進一といわれています。彼の指導により「帯農」は、全道大会にも出場しました。なお、海保先生は演出家、戯曲作家としても活躍し、帯広文化賞奨励賞も受賞しています。“なつ”の芝居を見てじいちゃんも、農協への牛乳の販売に同意します。
また、演劇大会で“天陽君”が半身の馬の絵をベニヤ板に書きましたが、これは拓北農兵隊として鹿追に入植した神田日勝の「馬(絶筆・未完)」が下敷となっています。
7.トテッポ
ドラマの会話に出てくる「トテッポ」とは、「十勝鉄道」の愛称です。この鉄道はビートを製糖工場に運搬することを目的に、大正12年に全線開通した軽便鉄道です。全長63kmの北海道でも有数の私鉄でした。開通後、住民の要請を受けて大正13年からは、18人乗りの客車も連結され、一般貨物も取り扱いました。
複数の路線がありますが、ドラマで出てくるのは、現在のJR帯広駅から帯広市の戸蔦、八千代まて通っていた路線と考えられます。時速20km程度の速度で、走っている列車に飛び乗って怪我をした人もいました。
地域の住民にとっては、営農資材や牛乳などの農産物の輸送に、帯広に通うにもなくてはならないものでした。帯広農業高校前にも「農学校前」という駅があり、「帯農」や畜産大学の学生が利用しました。しかし、トラック輸送と自動車の普及により徐々に運行路線が短縮され、昭和34年に全線廃止されました。
おわりに
これまで、“なつぞら”に出てきた十勝の酪農に関することについて、みてきましたが、紙幅の関係で詳しい説明ができず、十分に理解できなかったかもしれません。
4月からこれまでみてきての私見を述べれば、時代と酪農情勢の考証がしっかりしていると感じました。また、十勝を代表する菓子メカーである「六花亭」と「柳月」の名前を組み合わせて「雪月」という和菓子店を登場させて、ドラマをより身近に感じさせる工夫もしています。「六花」とは雪の結晶を表しています。
なお、 ドラマと関連情報に関しては、NHKほかのネット情報も活用させていただきました。拙文がこのドラマの鑑賞に役立てば幸いです。
十勝平野(出典:ウイキペディア)
博士(生物産業学)
北海道大学大学院農学研究科博士課程中退。北海道開発局、北海道地域農業研究所、酪農学園大学を経て北海学園大学経済学部教授。平成25年定年退職。北海学園大学名誉教授。。