北海道の土木遺産の中でとりわけ人気のある施設の一つが十勝のタウシュベツ川橋です。
1年の半分ほどしか姿を見せないこの「幻の橋」は、戦前の昭和12(1937)年に旧国鉄士幌線の鉄道橋として架けられました。しかし20年も経たない昭和30(1955)年に、糠平ダムの建設で水没する運命となり、遺跡と化したのです。そしてダム完成後は、1月頃に凍結した湖面から姿を現し、ダムの水位上昇と共に湖に沈み始め、秋には湖中に没する、というサイクルを繰り返しています。そのため、水中での圧力や凍結・融解の繰り返しにより、コンクリートの劣化は激しく、崩壊の危機に瀕しています。とは言え、補修のための予算の支弁は困難で熊の出没で頻繁に立ち入り禁止になるような山奥でもあり、対策の目途は立っていないのです。
一方、遺跡が次第に朽ち果てていくのは自然で、あるがままの変化を観察しようと考える人達も多くいます。
考えて見ると、平家物語の作者が祇園精舎の鐘の音に「諸行無常」を感じ、平家の盛衰という一大歴史的ドラマの中に滅びゆく「ものの哀れ」を潜ませた感性は、私達日本人のDNAに脈々と受け継がれているのかもしれません。その証拠に、日本人の桜好きは、今に始まったことではありませんが、その魅力は華やかに咲いて潔く散る「刹那の美」にあるとは、よく言われる言説です。「壊れかけた橋」が崩れ、瓦解していくプロセスをじっと見守ることで、この世の無常をしみじみと感じ、感動するのかもしれません。
タウシュベツ川橋(撮影:佐々木育弥)
さて、イタリアに「壊れかけた橋」ならぬ「壊れた橋」(イタリア語「ポンテ・ロット」(注1))という橋があります。古代ローマ時代の紀元前2世紀に架けられた石造アーチ橋(注2)なのですが、当初は七つあったアーチは徐々に失われ、19世紀後半に最後に残った一つのアーチ部分が現在のポンテ・ロットなのです。
そしてこの橋は、欧米の子供達なら誰もが知っている英雄物語の舞台となった橋として有名なのだそうです。
それはローマの「勇者ホラティウス」、ホラティウス・コレクスの武勇伝なのですが、紀元前508年、現在の石橋が出来るずっと前の木橋の時代の出来事です。ローマ帝国はエトルリア軍に攻め込まれ、ローマに通じる唯一の通路だったこの橋に敵軍が迫りました。このローマは陥落の危機に果敢に立ち上がったのが、ローマの一人の若者に過ぎなかったホラティウスです。二人の勇敢な兵士を募り、数千人の敵軍を前にして3人が横に並んで橋上に立ち塞がり、敵軍を次から次へと打ち倒しました。そして、彼らが敵の軍勢を食い止めている間に、味方が橋を破壊し、敵のローマへの進軍を阻止することができたのです。
ポンテ・ロット(「壊れた橋」);出典 ウィキペディア「アエミリウス橋」 Patrick Denker-Fliekr )
橋上での闘いというと源義経と武蔵坊弁慶との京都・五条大橋での大立ち回りを連想される方もおられることでしょう。いずれにしても橋はドラマになる格好の舞台と言えそうですね。
ところで、ややこしい話なのですが、ホラティウスの時代のエミーリオ橋は、スブリキウス橋(「木の橋」の意)という違う名前が付けられていました。その当時既に石造の技術はありましたが敢えて木橋を架けたのは、敵に攻められた際、速やかに橋を壊して敵の進軍を防ぐ目的があったのです。ローマのその選択は正解でしたね!
ただ、木橋はあっと言う間に朽ち果てて残らないので、移ろい滅びるものをこよなく愛する日本人の心情には合致しそうですが、石橋のように長い風雪に耐え、刻み込んだ長い歴史を現代の私達には伝わらないのは残念なことですね!
「壊れた橋」ポンテ・ロットは、訪れる人々に遠い昔の古代ローマの面影を伝え、想像の翼を羽ばたかせているのかもしれません。
タウシュベツ川橋も「壊れかけた橋」として、出来うるならばいつまでも、朽ち行く姿を楽しませ続けてもらいたいものです!
(注1)イタリア語でPonteは「橋」、Rottoは「壊れた」
(注2)当初の橋名は「エミーリオ橋」(イタリア語)(ラテン語では「アエミリウス橋」)
2024年6月第1号No.146
(文責:小町谷信彦)