橋は古来、生活の必要から生まれましたが、その時代時代の社会や経済、政治状況を映す鏡と言えるかもしれません。なぜならば、橋の歴史的変遷からそれぞれの時代の特徴を概観できるからです。
では、その歴史をたどってみましょう。
橋の出現は人間の定住と深く関わっていて、日本では縄文時代初期が起源とも推測されますが、確認されている最古の遺跡は縄文時代後期の木道です。これは湿地帯を越えるために丸太を数本並べ、部分的に枕木で固定した簡単なもので、縄文人が集落から採集地や耕作地に移動するために作られたとされています。
続く弥生時代には集落間の連絡路が作られ、集落周辺の環濠や溝に簡易な板橋が架けられ、さらに古墳時代の後期5世紀になると、国によって広域的な道が整備され、比較的大きな橋も架けられるようになったようです。
そして飛鳥時代以降は、その時々の行政組織の力の強弱を反映して、橋の主な設置者が公だったり民だったりと変化しているのは、とても興味深いことです。
飛鳥時代、大化の改新の翌年の646年に架けられた初代・宇治橋(京都府)は元興寺の僧・道登(どうとう)が架けたとされていますが、「民衆の意志を代弁する僧」が公の代わりに架けた橋と言えます。
6世紀半ばに大陸から伝えられた仏教は、奈良時代には国家の安寧(あんねい)を図る国家仏教に発展しましたが、その一方で衆生(しゅじょう)の救済を目的として民衆への布教を目指す僧侶が現れ、その一人、行基は布教のかたわら、自ら弟子を率いて橋や堤防を築いて民衆の生活の必要に応え、人々を仏門に引き寄せました。
その後、律令制度が定着した平安時代には、中央政府は造橋使を地方に派遣し、租税の調(ちょう;繊維製品、特産品、貨幣)を中央に運ぶ目的で、主要幹線の要所に橋を架けるようになりました。
しかし平安後期に律令制が弱体化すると、再び僧侶による橋の建設の時代が訪れます。
「勧進」(かんじん)は、寺社や仏像の建立(こんりゅう)・修繕などのための寄付ですが、橋の建設や修繕などにも使われ、聖(ひじり)と呼ばれる伝道僧がもっぱら橋づくりの担い手となりました。京都の清水橋や祗園橋はその代表例ですが、その活動を資金援助によって支えたのが地元の商工業者でした。
橋の建設は、さらに時代背景とともに変わっていきます。
街道や橋が重要な社会インフラとして認識されるようになると、関料として通行人に課される収入は寺院や貴族の利権と化し、室町時代の後期には、街道の至る所に関所が設けられ、交通が阻害されるようになったのです。
この交通障害の問題に最初にメスを入れたのが織田信長です。畿内を中心に強力な政権を立て、関所をなくし自由な通行を保証するとともに、勢多橋や宇治橋を広幅員で堅牢なもの架け替えました。そして後を継いだ豊臣秀吉は京都、大坂の道路や橋を整備し、江戸に入城した徳川家康も江戸の交通路や五街道の整備などに注力しました。
乱世の覇者たちには、国を治める上で交通路の確保は肝要、という共通認識があったのでしょう。
橋の歴史を日本史と重ね合わせて見ていくと、まだまだ面白い発見がありそうです!
(参考文献) 「橋の日本史私論」(松村博;土木学会 土木史研究 第19号 1995年5月)
2024年12月第1号No.157
(文責:小町谷信彦)