橋の話題35「日本の橋の歴史~社会史から読み解く(その2)

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 今回のコラムは、前回の続編です。戦国時代に織田信長や豊臣秀吉が道路や橋の役割を認識して、整備に力を入れたという話をしましたが、江戸幕府を開いた徳川家康も江戸の生活基盤を整えるために尽力しました。家康が足を踏み入れた頃の江戸は、利根川がしばしば水害を引き起こす広大な湿地帯で、家康は治水のために利根川の流路の切り替えに着手しました。そして、家康は交通路の確保が重要なことを認識していたので、同時に町の要所に千住大橋や六郷橋などの大きな橋を架け、江戸と全国各地を繋ぐ五街道の整備も始めました。さらに家康以降、江戸の街の拡大に合わせて、隅田川などには次々と橋が架けられていきました。
 また、江戸幕府は京都に配慮して、町内の約百橋の橋を「公儀橋」として所司代や町奉行に管理させ、実務を京都御大工頭に任じた中井家に代々命じたので、中井家に橋の技術がされたのです。
 一方、江戸と対照的なのが大坂の橋です。江戸時代の初期こそ、幕府の費用で架けられるケースが多かったものの江戸中期に幕府の財政状態が悪くなると、ほとんどの橋は橋筋の町々が費用を負担して工事を行う「町橋」として架けられるようになりました。元々大坂は豊臣氏の大阪城築城以来、町に必要なインフラである堀川や道路、下水等は民間によって建設され、その費用は土地造成事業で賄うという方式が取られてきましたが、一層民間主導に変わっていったのです。
 ところで、橋の建設費用をどのように負担していたかというと、いろいろ工夫していたことがわかります。例えば心斎橋の場合、工事費の半分を橋本町と呼ばれる橋詰の町が負担し、残りの半分は沿道の5~10町に橋から遠くなるにしたがって1割負担金を減らすという計算で徴収していたとのことです。
ちなみに当時の大坂の橋の数は150~200橋で、その内、公儀橋はたった12橋、それに対して江戸には350橋ほどの橋があって、その半数が公儀橋とのことです。大坂と江戸の性格の違いが如実に反映されていますね。

 この「政治の中心・東京」と「商人の町・大阪」というこの町の個性は、今でも変わりないのでしょう。
 来年大阪で国際博覧会、いわゆる万博が開かれますが、これまでに日本で開かれた万博は、大規模な登録博(旧称 一般博)は2回(1970年大阪万博、2005年愛知万博)、認定博(旧称 特別博)は3回(1975年沖縄海洋博、1985年科学万博(筑波)、1990年花の万博(大阪))です。その開催地を見ると、大阪で2回開かれ、来年で3回目となりますが、東京での開催はなく、近隣の筑波で科学博が行われただけなのです。
 万博は、基本的には政府が主催とは言え、民間が中心となって開かれる大規模イベントで、民間の力が成否の決め手となります。
 近年、経済的にはすっかり影が薄くなり、大阪維新の会の台頭で政治的に注目されているのが救いとも言える昨今の大阪ですが、来年の万博を契機に、また「天下の台所」としての存在感を発揮してもらいたいものです。

(参考文献) 「橋の日本史詩論」(松村博;土木学会 土木史研究 第19号 1995年5月)

2024年12月第2号No.158
(文責:小町谷信彦)