川の話題13「戦時における河川」

 昨今、マスメディアはロシアのウクライナ侵攻のニュースで持ちきりですが、ウクライナを南北に縦断し黒海に注ぐドニエプル川については今回初めて知ったという方が多いかもしれません。この欧州第3の大河は、第2次世界大戦中の独ソ戦の「ドニエプル川の戦い」で史上有数の死者数を記録した激戦の地で、敗れたナチスドイツがロシア戦線での敗北を決定づけたという歴史について、日本ではあまり知られていません。
 日本でも源氏と平家が争った「富士川の戦い」をはじめとして、川を挟んで両軍が睨み合うという構図は大河ドラマでもしばしば目にする合戦スタイルだと思いますが、現代でも大きな川は進軍の障壁となり、軍隊、とりわけ大型兵器を対岸に渡す橋は軍事上も重要な施設で、その防衛のための拠点「橋頭堡(きょうとうほ)」の確保は戦況の鍵となってきました。ちなみに、ドニエプル川の戦いでは300㎞にも及ぶ長い戦線に23個も築かれた橋頭堡で熾烈な攻防戦を繰り広げられたと言います。

 このように戦時において大河は、しばしば軍隊の行く手を遮る自然のバリアとなりますが、艦船の航路や資材の補給路として軍事戦略上、重要な役割を果たすこともあります。日本を含めて多くの国ではインフラの整備や管理は官庁の仕事ですが、米国では河川整備や水資源管理を陸軍工兵隊が担っている理由はまさにそこにあります。陸軍工兵隊の歴史からそれを追ってみましょう。
 時は1775年、アメリカ独立戦争の開始から2か月後、工兵隊の前身となる陣地設営部隊が創設されました。当時の米国は、まだ道路も鉄道も未整備で、内陸での主な移動手段だった馬車は極めて遅く、輸送コストも高かったので、河川が輸送路として注目されていました。そして、フルトン蒸気船の登場が河川の遡上航行を容易にし、水上交通の発達と運河会社による河川整備や運河建設を促進しました。しかし、私企業では資金不足で大規模な開発が進まないという問題を背景として、1802年にニューヨーク州ウェストポイントで陸軍工兵隊(当初は陸軍士官学校(通称ウェストポイント)も管理)が創設されました。その後、1812年に勃発した米英戦争は、カナダ・五大湖戦線が制海権を廻る軍艦の建造競争、多くの船員や資材、軍需品を投入するロジスティック戦になりましたが、貧弱な内陸の水運インフラがネックとなり米国は英国からカナダを奪取できせんでした。この戦訓から1819年に陸軍大臣は内陸水路を国家的な発展と軍事を目的とした水路拡張計画を議会に提出、承認を受け、陸軍工兵隊による本格的な水路開発が始まったのです。

 さて、皆さんは、南北戦争と言うと何を連想されますか? リンカーンの奴隷解放宣言、それとも映画の北軍のグラント将軍と南軍のリー将軍との戦闘シーンでしょうか?
 北軍の勝利は、その後の米国が工業を中心とした自由貿易による発展への道を拓いたことを考えると歴史上、大変重要なトピックスと言えそうですが、注目すべき点は、北軍による海上封鎖とミシシッピ川の封鎖が南部諸州の物流と兵站補給を遮断し、南軍を東西に分断するとともに経済的困窮に追い込んだことが大きな勝因となったという点です。
 太平洋戦争で日本は、ロジスティックスや情報に対する認識が欠如し、前線への物資補給に失敗し、戦略的で情報戦にも圧倒的に優った米軍に完敗を喫しましたが、米国は建国の時代からロジスティックスの重要性を多くの経験から学んでいたのです。

 さて、日本には艦船が航行できるような大河は皆無ですし、現代は江戸や明治の時代のような水運の時代でもなく、戦時に河川が戦略的に利用されることはありません。
 しかし、もし戦争が勃発して敵国によって大規模なダムや堤防が破壊されたなら、下流住民への被害は甚大です。もちろん、ジュネーブ条約で戦時であっても軍事利用していないダム・堤防への攻撃は原則禁止されてはいますが、米国ですらこの規定を承認していないという現実やテロというリスクもあります。
 ではどう対処したら良いかと問われると大変難しい問題ですが、ウクライナの悲惨な現状を見るにつけ、平和に慣れ切った我が国の危機管理に一抹の不安を感じてしまう今日この頃です。

(参考資料:「アメリカ軍の戦略的水管理の起源を探る」(玉井良尚 立命館大学地域情報研究所紀要8:83-9782019))

2022年3月第1号 No.115号
(文責:小町谷信彦)