川の話題18「日本の伝統的治水工法~武田信玄が残した遺産」

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 連日、パリオリンピックの熱戦がTVを賑わせていますが、我が国のお家芸柔道の連日のメダルラッシュで元気づけられている方も多いのではないでしょうか?
 江戸時代の柔術を源とするこの武道は、明治初期に講道館柔道の祖・加納治五郎が「柔能く(じゅうよく)、剛を制する」を基本精神として始めたもので、心身を鍛え、勝ち負けを競うだけではなく、社会貢献できる人間になることを目的としていました。昔から日本人は、オタク精神が旺盛だったのでしょう。茶道、華道、歌道、香道等々、数々の究極の技を極める「道」を生んできたが、柔道もその一つと言えるかもしれません。

 この柔道の基本精神は、自然に逆らわず、自然との共生を模索してきた日本人の習性とも関係しているかもしれません。 西欧人は、自然を征服すべき脅威、言わば敵と見なしてきたのに対して、日本人は、自然を畏敬の対象とし、仲良く付き合ってきた、という比較文化論をよく耳にします。     
 例えば、鈴虫の鳴き声を美しいと愛でる日本人の感性をどうも欧米人は持ち合わせていないようで、虫の音が脳で認識される場所も異なるようです。日本人は、言語中枢をつかさどる左脳で認識するのに対して、欧米人は、雑音と同じように右脳で認識されるという研究結果が報告されています。つまり生理的にも、日欧の自然観の違いが反映されているのです。

 そんな日本人のDNAに刻み込まれた「自然との共生」という感性が、わが国の伝統的な治水工法にも反映されています。
国土の大半を山が占め、雨も多い日本では、古代の人々は水害を避けて山麓部を中心に集落を築きましたが、中世には新田開発が進み、とりわけ戦国時代になると、国力を上げるために大名は競って耕地開発を進めました。そのため、洪水の危険も増し、河川の制御にも力を入れ始めたのですが、特に甲斐(現在の山梨県)の武田信玄は、様々なユニークな水制工法を実施したことで知られています。
 その一つが「霞堤(かすみてい)」(竜王堤)と呼ばれる堤防です。ある区間に開口部を設け、その下流側の堤防を上流の堤防と二重になるようにしたものですが、堤防が折り重なり、霞がたなびくように見えることからこの名が付けられました。
 また、「聖牛(せいぎゅう)」も信玄の発明です。丸太で四面体の枠を作り、重りの蛇籠(じゃかご)を載せて沈め、水の勢いを弱める工法で、その形が牛に似ていることから、こう呼ばれています。最初、山梨県の急流、釜無川、笛吹川で取り入れられ、信玄の領地拡大に伴って天竜川等にも広がり、江戸時代には全国の急流にも普及したとのことです。そして現在も、日本の三大急流と呼ばれる富士川(静岡・山梨県)、最上川(山形県)、球磨川(熊本県)で使われています。

霞堤(出典:国土交通省関東地方整備局)

聖牛(足元に置かれているのが蛇篭; 出典:国土交通省関東地方整備局)

 そして、この聖牛の足元に置かれた蛇篭も伝統工法の一つです。その起源は紀元前360~250年の中国と言われるので、日本由来ではありませんが、古墳時代~飛鳥時代に伝えられ、安土桃山時代以降、広く使われるようになったようです。竹材や鉄線で編んだ長い籠に砕石を詰め込んだ水制の仕掛けで、聖牛と組み合わせるだけではなく、広く河川の護岸や斜面の補強などに使用されてきました。その長所は、川床や護岸が水流で洗堀されても、蛇のようにうねうねと地形なりに形を変えるので、自然の変化に柔軟に対応できるという点にあります。

 ちなみに、明治初期に石狩川の治水事業に大きな功績を残した「岡崎文吉」が発明した「岡崎式単床ブロック」は、この蛇篭の長所を応用したユニークなものでした。長方形のコンクリートブロックを鉄線で繋ぎ合わせ、マットのように敷いて、河岸や河床を保護するものですが、海外にも普及し、現在も米国・ミシシッピ川で使われています。(参考1、2)

現在も石狩川下流の茨戸川に残る「岡﨑式単床ブロック」(北海道開発局所蔵)

ミシシッピ川に設置された岡崎式単床ブロック

 霞堤も欧州のライン川やローヌ川に築かれるようになりましたが、それは19世紀になってからのことなので、当時のわが国の治水技術は、相当に先進的だったことがわかります。
 武田信玄は、道半ばにして病に倒れ、天下人となることはありませんでしたが、病魔に屈せず、京に上ったとしたら、日本中の治水対策がもっと進んでいたかもしれません?

(参考1)弊社ホームページ 「岡崎文吉~石狩川の流れに、理想の川の姿を求めて(第2回)」

(参考2)弊社ホームページ 「岡﨑文吉と合衆国の大動脈ミシシッピー川」

2024年8月第1号 No.149

(文責:小町谷信彦)