当たり前のことですが、人々の暮らしに地形は、大きな影響を与えてきました。中国やヨーロッパの平地に恵まれた地方では、大昔からゆったりとした自然の川を利用した舟での移動が盛んでした。河口から舟で遡り、舟が進めなくなった地点で岸に上がり、舟をかついで丘を越えて別な川を下って移動していたのです。
そして、中世都市が発達した11世紀以降には、各地で小規模な運河が建設され、とりわけ分水界を越えて二つの河川を繋ぐ「山越え運河」によって行動半径は大きく広がりました。
では、国土の7割が山という日本の場合はどうでしょうか?
険しい山で川と川は遮られ、その上流から下流までの流域ごとの移動しかできず、横の移動は海岸沿いが中心でした。海に囲まれた島国なので舟での移動も海が中心だったのです。
近代になって、世界では、スエズ運河とパナマ運河が建設され、海運ルートの大幅な短縮が多大な経済効果を生み出しました。しかし、日本にはそのような運河の適地はなく、そんな発想もほとんどありませんでした。
ところが、そんな日本でも日本地図をよくよく眺めて見ると、1か所だけ適地があります。
どこでしょうか?
日本列島はその真ん中を背骨のように山脈が連なっていますが、1か所だけ切れている場所があるのです。
大阪湾から大阪平野、京都盆地、琵琶湖を経て、日本海側の若狭湾に至るルートです。琵琶湖を源とする淀川は瀬田川、宇治川と名前を変え、大阪湾に流れ下りますが、琵琶湖から日本海までは最短で20㎞、つまり、本州横断運河を造るとすれば、ここしかないという絶好の場所なのです!
というわけで、今回のコラムは、これまでに何度も建設構想が打ち上げられたにもかかわらず、結局、日の目を見ることのなかった琵琶湖運河の残念な歴史をたどってみたいと思います。
琵琶湖運河構想は、平安時代末期に平清盛が嫡男 平重盛に琵琶湖・若狭湾間の運河の掘削を命じたという記述がありますが、確かな史料がある計画としては、江戸時代前期の1669年に京都の豪商が舟を往来させるための幕府に出願した「川道」計画が最初のようです。これは却下され、26年後の再度の出願では、当時開設された西廻り航路(北陸~下関~瀬戸内海~大阪)の影響で京都周辺の荷動きが減り、商業が衰退するのを防ぐという理由と、琵琶湖と新設水路の水位を門樋で調整して大雨時に水を日本海に流し、琵琶湖周辺や淀川流域の洪水を防ぐという二つの理由が、幕府も関心を引き、現地検分まで行われましたが、既得権の侵害を嫌った庄屋や問屋、馬借、船持の猛反対を受け、あえなく頓挫しました。
江戸中期には、水運ではなく琵琶湖の水位を下げて新田を開発する、という新たな目的で運河計画が立てられ、さらに江戸末期には、大阪湾が異国船に占領された場合の緊急避難路という新たな観点での検討がされました。時代状況で千変万化、面白いものですね!
そして明治に入ると日本は文明開化一色。明治5年には汽船が大阪から淀川、琵琶湖経由で日本海まで航行できるように琵琶湖と日本海を繋ぐ大運河を開削する「阪敦運河」計画が立案されます。熱心な請願活動の甲斐あって、明治38年には貴族院で採択されるも、日露戦争の戦費増大による予算の壁に行く手を阻まれました。
その後も琵琶湖疎水の建設などで名を挙げた土木の先人・田邊朔郎が、1万トン級船舶の通行できる大琵琶湖運河を築き、満州・朝鮮半島と京阪の工業地帯を物流ネットワークで繋ぐという壮大な計画も策定されました。しかし今回も、中国での戦争の戦況の悪化で実現しなかったのです。
時は流れて、戦後、1960年代の高度成長期に、またしても運河計画は息を吹き返します。
今回の主唱者は、当時、自民党の副総裁だった大野伴睦(ばんぼく)です。地元・岐阜の田んぼの真ん中に東海道新幹線・岐阜羽島駅を強引に誘致したことで知られる有力な政治家でした。ただし、これまでの計画とは違い、琵琶湖と伊勢湾を繋ぐ運河も新たに開削し、日本海と大坂ではなく愛知を繋ぐという、まさに我田引水の巨大プロジェクトでした。関係5県の建設期成会は大いに盛り上がり、政府の調査費を獲得するところまで行きましたが、「”海なし県” 岐阜に港を造る」という思いも半ば、大野伴睦の急死、昭和40年代の海運不況も影響し、計画は立ち消えとなってしまいました。
琵琶湖運河、完成していたなら、今の日本はどう変わっていたのでしょうか?
太平洋側より発展が遅れた日本海側は、もっと繫栄して、バランス良い国土になっていたのでしょうか?
「たられば」なので、何とも言えませんが、土木の力が発揮できる大規模プロジェクトが幻に終わってしまったのは、残念なことですね!
2025年2月第1号No.161
(文責:小町谷信彦)