レンガの町“江別”それは「川の港町」の歴史でもあった
江別というと皆さんは何を連想されるでしょうか?
広大な原生林が残る野幌森林公園、それとも、江別焼き物市でしょうか。中には、街中で散見されるレンガ造りの建物や施設、古くからある「煉化もち」が江別らしさだと感じている方もおられるかもしれません。
江別のレンガの歴史を紐解くと明治期にまで遡ります。
レンガと言うと「赤レンガ庁舎(旧北海道庁本庁舎)」や「東京駅」「旧法務省本館」が有名ですが、明治時代には、レンガは建物のみならず鉄道の橋梁、トンネルや路盤の補強などにも使われ、社会基盤施設の材料としてなくてはならない存在でした。
江別は、レンガに適した野幌粘土が周辺地域の土壌から豊富に採取でき、また、石狩川舟運の中継拠点でもあり、本府と呼ばれた札幌や商業・金融の中心都市小樽などに程近いという地の利もあって、1891(明治24)年にレンガ製造が始まりました。
さらに、1898(明治31)年に「北海道炭礦鉄道野幌煉瓦工場」が創業し、大規模な生産がスタートしたのを契機に、中小のレンガ工場が次々と進出。明治末期から大正初期にかけて最盛期を迎え、レンガの一大生産地となり、江別の基幹産業として地域の発展を支えました。
しかし、1923(大正12)年の関東大震災でレンガは地震に弱いという風評が広がり、次第にレンガ産業は衰退していきました。
それでも、江別は現在でも3か所のレンガ工場が稼働し、国内の20%以上のシェアを占める日本有数のレンガ生産地の地位を保っています。
さて、このレンガの町“江別”が生まれる一因ともなったのが石狩川の舟運。内陸の交通路が未発達だった明治初期の北海道開拓時代には、奥地に行くための重要な交通手段でした。1884(明治17)年に樺戸監獄の囚人に2か月かけて流木の除去や河床を整備させ、汽船が通行できるようにしたという記録が残っていますが、手つかずの原始河川の時代、さぞかし大変な作業だったことでしょう。
そして、外輪船と呼ばれる船体の両側に大きな水車を付けた船が、空知の農村からの農産物や乗客を乗せて石狩川を往来しました。ちなみに、1902(明治35)年の運航時間は、江別~月形の上りが9時間、下りが4時間だったとのこと。中々の長旅だったようですね。
「川の港町」で「鉄道の町」でもあった当時の江別は、船で上流から集められた荷を鉄道に積み替えて札幌や小樽に運ぶ物流の拠点、今で言う「交通のハブ都市」として栄えました。多くの荷物を保管する倉庫が立ち並んでいただけでなく、造船所まで立地し、人々が行き交う活気のある町だったのです。
複合商業・公共施設 “EBRI“ (旧ヒダ煉瓦工場(北海道産業遺産)を再整備)
レンガ造りのバス停待合所
ガラス工芸館
そして、時代は2018年。「川の港町」江別の繁栄も今は昔。
ただ、かつての名残りを今に留める石造り倉庫がひとつあります。JR江別駅から程近い江別の港沿いで密かに孤高の存在感を漂わせているその倉庫、札幌軟石で造られた明治30年建造の旧岡田倉庫です。
現在は、岡田家から寄贈を受けた江別市が10年余り前に「アートスペース外輪船」というイベントスペースに再生し、イベントやコンサートの場として市民に開放されていますが、ノスタルジックな石造りの雰囲気が受けているようです。
アートスペース外輪船
さて、江別駅周辺では、某大手書店による複合的施設の建設計画が公表され、それに合わせて駅周辺の再整備の検討も始まるようですが、江別の歴史が町の記憶として継承されるようなまちづくりを期待したいものです。
*江別の川にちなんだ歴史をさらに知りたい方は、江別河川防災ステーション(江別市)の展示コーナーの見学をお奨めします。
(文責:小町谷信彦)
2018年10月第1号 No.40