川の話題 7 「創成川と大友亀太郎」

創成川と大友亀太郎

大友亀太郎をご存知でしょうか?
北海道の方なら多くの方が大友堀を開削し、札幌の礎を築いた偉大な先人として記憶に留めていることでしょう。
大通公園から続く散策ルートとして札幌を訪れる観光客にも親しまれている創成川は、碁盤の目のような札幌中心部の街路を東西に分けて南北に貫流しますが、この大友堀をベースとして人工的に造られた川なのです。

大友亀太郎は、1834年(天保5年)に現在の神奈川県小田原市に生まれますが、天保の大飢饉で衰退していた村を復興した同郷の二宮尊徳の門下生となり、報徳仕法と呼ばれた農村復興政策を学んだ後、北海道に渡り、函館奉行所の役人として現在の木古内町周辺の未開地の開墾に当たり、約100haの田畑を開発しました。そして、その実績が認められ1866年(慶応2年)に現在の札幌の開拓を命じられます。まだ、札幌に開拓使が置かれる前で、原生林がうっそうとしていた時代です。大友は札幌に着任早々の1867年に農業の基盤となる延長4kmの用排水路「大友堀」の開削に取りかかります。これが後に拡張され札幌への物資の運搬の要ともなった創成川の始まりなのです。

ところで、大友が居を構え開墾を進めた地域は、現在の札幌市東区元町や苗穂周辺で一帯は札幌村と呼ばれていました。しかし、明治の初めに初代開拓判官の島義勇が本府を現在の北海道庁の場所に置いたことから、その周辺部を札幌新村とし、それまでの札幌村は札幌元村となったのです。その後、札幌新村は、札幌府、札幌区、札幌市と札幌村の区域を部分的に吸収合併しながら市街地を拡大し、昭和30年(1955年)に残る全域が編入され札幌村は完全消滅しました。都会の札幌と田舎の札幌の二つの札幌が長い期間併存していたのですね。
東区に現存する「札幌村神社」(北16条東14丁目)は、今はなき札幌村の名残と言えるでしょう。

やがて物流、人流の中心は鉄道へ変わり、そして道路の時代となり、札幌オリンピックを契機に創成川の両側が幹線道路として整備されていきます。かつて石川啄木が「市の中央を流るる小川を創成川といふ、うれしき名なり」と日記に綴られ、市民に愛されていた創成川は、いつしか忘れられた場所になってしまいました。

しかし、一部の文化人や学識経験者が1990年に創成川は大通公園と並ぶ札幌のかけがいのない文化遺産なので、市民の手で市民のためのオアシスに再生しようと提唱しました。この「創成川ルネッサンス」と称する市民運動は、多くの市民の共感を広げ、創成川の両側の道路のアンダーパス化と川沿い空間の公園整備が決定し、21年の時を経て、2011年に創成川は、大通公園から回廊として散策できる「創成川公園」として再生。当初の水運という役割は終えましたが、札幌都心における緑と水のオアシスとしての札幌市民のみならず多くの観光客を魅了するスポットに生まれ変わったのです。

 

この創成川の夜を彩るイベント「創成川キャンドルストリーム」。2019年度は9月13日(金)にイルミネーション点灯式。9月28日(土)にはグランドフィナーレが予定されています。
LED入り風船を13日に1,000個、28日に5,000個を流し、期間中は創成川がイルミネーションで飾り付けられます。

札幌の開発の基点となった創成橋の横には、大友亀太郎の像が鎮座しており、創成小学校の歴史を引き継ぐ資生館小学校には大友亀太郎の師である二宮尊徳像が。
大友堀が今も多くの人々に親しまれ、愛されているのを眺めて、その真面目な顔の表情からは読み取れませんが、心の中は満足感に満たされていることでしょう。

 

(文責:小町谷信彦)

                       2019年7月第2号 No.62