お正月にちなんで干支の蛇の話題と思ったのですが、思いつかないので1年フライイングで馬の話題です。馬車道について調べてみました。
まずは馬車のルーツ、どうも定かではありませんが、少なくとも紀元前15世紀には兵車(一人乗りの2輪馬車)や戦車(4輪以上の馬車)を使った戦闘が中東地域で行われていたことが聖書に記述されていますし、世界中で使われていたことは知られています。しかし、日本では戦いだけでなく、移動用でも馬車は使われませんでした。それは何故でしょうか?
山が多く勾配が急、また川も多いという地形的な問題や多雨多湿で道がぬかるみやすいといった気候条件など、日本の独特な環境が欧米のような馬車の発達を妨げたということなのでしょう。
さて皆さんは、馬車道と言うと何を思い浮かべますか?
横浜の「馬車道通り商店街」をイメージする方もおられるかもしれませんね。実際、グーグルで検索すると、「馬車道」で一番ヒットするのはこの商店街に関連した記事なのですが、興味深いことに、まさにその名の通りここが「日本の馬車道の発祥の地」であることがわかります。
幕末に黒船の到来により鎖国を諦めざるを得なくなった日本は、横浜を開港しましたが、横浜港と関内地区を結ぶために明治元年(1968年)にそれまでの2m程の貧弱な道を4~5mに拡幅し、日本で最初の「馬車道」として整備したのがこの通りだったのです。外国人がこの道を馬車で往来する姿は、当時の人々にとっては大変珍しく「異人馬車」と呼ばれ、「馬車道」が通称となっていったようです。
この馬車道は、明治時代の外国文化の玄関口だったことから、「日本初」という話題には事欠きません。
“アイスクリン”という名称で売られたアイスクリームもその一つなのですが、そのお値段は何と現在価格で約8000円とのこと。もちろん、外国人しか買えない庶民には手の届かない代物だったようですがビックリですね!
他には乗合馬車(2頭立て6人乗り)。明治2(1887)年に初めて横浜~東京間で運行しましたが、今なら電車で30分程のところを約4時間もかかったとのこと。大変な時代だったのですね。さらにガス灯、近代街路樹、日刊新聞等々、初物づくしです。
そして明治9(1876)年には、日本で最初の本格的産業道路として、生野銀山(兵庫県朝来市)~飾磨津(しかまつ;兵庫県姫路市)をつなぐ全長49㎞の通称「銀の馬車道」が開通します。来年開通250周年を迎えるこの馬車道は、わが国屈指の銀山だった生野銀山から積出港となる姫路の港までの輸送路で、現在価格で35億円という当時としては破格の巨費を投じたことからも、その重要性がわかります。
ちなみに、平安時代初期の開坑とされるこの銀山、本格的な開発は織田信長の時代からで、豊臣秀吉、徳川家康と天下人の貴重な資金源となり、家康は佐渡金山、石見銀山とともに直轄領として銀山奉行を置きました。明治政府も彼らと同じように殖産興業のための大切な虎の子と考えていたのでしょう。
この「馬車道づくり」一つ取ってみても、「欧米に追いつけ、追い越せ」の明治政府の物凄い意気込みが感じられますが、とは言え、日本の地形や気候は馬車には不利ということには変わりありません。
結局のところ、馬車道づくりは本格的に発展することはなく、鉄道が明治の殖産興業を支える輸送インフラとして全国に張り巡らされることになります。道路の時代の幕開けはまだ先でした。道路の主役が馬車から自動車に変わる次の時代まで待たなければならなかったのです。
2025年1月第1号No.159
(文責:小町谷信彦)