道の話題 1「ローマ街道と江戸五街道」

ローマ街道と江戸五街道

「すべての道はローマに通ず」。古代ローマでは、目的までの手段や方法は何通りもあるという意味の格言にもなったように、広大な帝国内の道が見事に首都ローマに向かっていました。
そして古代ローマが、西・南ヨーロッパからトルコ、地中海沿岸の北アフリカに至る広大な領土を約500年の長きに渡って支配できたのは、全長15万キロにも及ぶこのローマ街道のお陰とも言われています。
このよく整備・管理され、車馬が走りやすい街道は、帝国各地に散在する生産地と大消費地ローマとを結び付け、ローマ市民の生活を支える物流の大動脈でした。主食の穀物はエジプトやカルタゴなどの北アフリカから、ワインやオリーブ油はスペインやフランスから、衣服に使う羊毛は英国やドイツから、綿や麻はエジプトやシリアから、さらに陸や海のシルクロード経由で絹は中国から、香料はアラビアやインドからといった具合。グローバル化した現代顔負けの国際物流が当時の豊かな生活を支えていたのです。

しかし、ローマ以前に繁栄した国々、例えばギリシャやフェニキアの交易の中心手段が水運だったことを考えると、ローマで道路の建設が進み、陸運が発達したのか?という疑問が生じます。
なぜならば、水運は海や川をそのまま交通路として使えるのに対して、陸運は道路の建設と維持に莫大な労力と経費を要し経済的ではなかったからです。
その理由はと言うと、ローマ街道の果たす最大の役割は国土の防衛だったのです。
すなわち、内乱や外敵の侵入という非常時に大帝国の隅々まで迅速に軍隊を移動して鎮圧するための軍用道路として造られ、それが物資の運搬にも活用され、水運よりも早くて便利な運搬路として発展したというわけです。
その何よりの証拠は、次のような道路の計画・設計上の特徴から明らかです。
①大軍団の迅速な移動を可能とした平坦で直線的なルート、②最低3列での行軍可能な広い道路幅、③天候が悪くてもぬかるむことなく重い武器の運搬が出来るコンクリートや石材による舗装、④敵軍からの妨害を避けるため町をバイパスするといった軍事上の配慮
そして、この4項目は、時代を超えて現代の高速道路網の整備計画にも相通じているということに驚かされます。

さて、これだけ治安も良く安全に管理された道路網があれば、ローマ市民の間に旅行熱が高まったのは当然の成り行きで、旅行地図や観光情報も出回っていたようです。
そして、この恩恵はローマから離れた帝国縁辺の住民にも及び、中にはちょっと変わった旅行者もいました。
初期キリスト教の使徒で各地での宣教活動で知られたパウロもアッピア街道(代表的なローマ街道で現在は観光名所)を利用してローマ入りしたことが、新約聖書(使徒の書)に記述されていますが、迫害者により訴えられ捕縛されてローマで裁判を受けるための旅でした。
余談ですが、「目から鱗が落ちる」という諺の由来はご存知でしょうか?
実は、新約聖書のパウロに関する記述から取られています。
西洋絵画のお好きな方は、デューラーやレンブラントの絵でご覧になったことがあるかもしれませんが、パウロは、1世紀初めにトルコで生まれたユダヤ人で、キリスト教の迫害者だった若い頃にイエスと出会い、その行状の故にイエスの奇跡によって盲目にされ、イエスの力に感服、回心し、熱烈なキリスト教徒となった人です。
そして、見えなくなった目をイエスが一人のクリスチャン女性の祈りによって回復させた時に「目から鱗が落ち、視力を取り戻した」(「使徒の書」9章18節)とされています。
他にも、「豚に真珠」「七転び八起き」「砂上の楼閣」「狭き門」「羊の皮を被った狼」「スケープゴート」等々、聖書からの引用された格言や慣用句は数多ありますが、意外と知らずに使っている方は多いかもしれませんね。

ここで目を転じて所は日本、時は江戸時代にタイムスリップしてみましょう。
「すべての道は江戸に通ず」とは言われなかった江戸五街道ですが、ローマ街道と比較してみましょう。
まず、大きな相違点は、江戸時代の物流の中心は水運で、五街道は物の運搬路という役割はほとんど果たしていなかったという点です。五街道も軍事が主目的という点ではローマと共通でしたが、軍事戦略の違いが街道の造り方、性格を大きく変えたようです。
五街道では要所要所に関所を設け、人や物の出入りを厳重にチェックしました。特に東海道では江戸への武器の流入や人質の大名の妻子が江戸から脱出するのを阻止する「入鉄砲出女」と呼ばれる厳しい取り締まりが行われたとのことです。また、地方大名が反旗を翻した時に江戸に攻め上りにくいように街道を遮る大きな川に橋を架けることを禁じるなど、ローマの機動力を駆使した攻めに対して、江戸幕府は守り重視。幕府軍を大挙して迅速に地方に遠征させるために街道を整備するという考えはなかったようです。

「攻撃は最大の防御」という格言の語源はラテン語、あるいは、孫子の「兵法」とのことですが、日本の諺は、「待てば海路の日和あり」とか「果報は寝て待て」とか、受身が多いような気がしませんか?

四囲を海に囲まれた山国・日本、一方、海に突き出た半島を南北に山脈が縦断するイタリア、似たような地形、大きさの両国ですが、昔の街道の造り方ひとつを取ってもお国柄の違いが垣間見られるものですね。     (N.K)