道の話題7「北海道命名150年と『路』『道路』」

北海道命名150年と『路』『道路』

2018年は、「北海道命名150年」に当たる記念すべき年として、北海道の草創期の話題がクローズアップされ、様々な記念行事が展開されています。
というわけで、今回は、「北海道」が誕生した時代の道路について、少し振り返ってみたいと思います。

話は、明治の初期に遡ります。1869年(明治2年)、札幌に開拓使が設置されましたが、それまで函館を中心とした道南に偏っていた開発エリアを道央まで広げるために何が必要なのか? 1871年(明治4年)に米国から招へいされた開拓顧問ケプロンは函館・札幌間の輸送力の向上と指摘しました。それを受けて開拓使は、函館と札幌を繋ぐ幹線道路の建設を決定しました。後に「札幌本道」と命名され、日本初の本格的な西洋式馬車道として歴史に名を残すこの道路は、1872年(明治5年)3月に建設に着手されました。7月には函館から森までの約45kmが完成、翌1873年6月には函館から札幌までの全線約224km(森~室蘭間は海路)が完成ということですから、計画から着工、完成までに相当の時間を要する今では考えられないスピード感ですね。当然のことながら、建設には多大な労力を要しますので、作業員や職人は全国から数千人が募集され、高い技術を持った者だけが試験で選抜されて北海道に送り込まれてきたそうです。まさに国が総力と緊急感を持って取り組んだ一大プロジェクトだったことがわかります。
しかし、19世紀後半と言えば、ケプロンの国アメリカは西部開拓時代で、大平原を砂煙をあげて走る馬車、颯爽と愛馬にまたがるカウボーイといったまさに西部劇の世界。それに対し我が国はというと、庶民は菅笠かぶって草鞋ばき、肩には手荷物の時代劇の世界で大名やお姫様でも馬車ならぬ篭の旅。文明開化を宣言した途端に世界が一変するわけもなく、せっかく造った札幌本道なのですが、当初は十分には活用されなかったようです。
「少年よ大志を抱け」のクラーク博士は、1877年(明治10年)の帰国の際にこの道路を通り、後に開拓使に宛てた書簡で無駄な道路だと批判し、札幌・小樽間の道路を改修して鉄道を敷設することも併せて提言したとのことです。
ちなみに、1879年(明治12年)に小樽・札幌間の最大の難所だった張碓海岸の道路が開削され、翌1880年(明治13年)に幌内鉄道の建設に着手、わずか11か月で手宮(小樽)・札幌間を北海道で初めての鉄道が走りました。

さて、この幌内鉄道、2年後の1882年(明治15年)には全線(手宮~幌内)が開通し、幌内炭鉱(現在の三笠市)などで採掘された石炭輸送の大動脈として、明治以降の日本の殖産興業を支え、そして戦後も‘70年代の石油へのエネルギーシフトまで、戦災復興を支え続けました。
また、鉄道のように膨大な建設投資を必要としない輸送手段として開拓期当初から活用されてきたのが、舟運でした。特に空知地方では、農産物の輸送などには、河川の本川・支川に農業用水確保のために開設された運河も加わった水路のネットワークはとても有用で、弊社の立地する江別は、炭鉱鉄道と石狩川舟運の交通結節点という利点を活かし、舟で運ばれた生産物を札幌や小樽に鉄道で運ぶ積替え拠点として繁栄しました。
今や北海道の道路は、人の移動だけでなく物流の要として、なくてはならない社会基盤施設の主役と言っても過言ではないと思いますが、礎の時代を振り返ると、鉄路、水路と多くの「路」があり、道路が脇役の時代もあったのですね。
                          (文責:小町谷信彦)
                         2018年6月第1号 No.27