アイヌの道
2020年夏の東京オリンピック開催に合わせて、北海道では白老町のポロト湖に民族共生象徴空間として国立のアイヌ民族博物館と民族共生公園が完成する予定で、アイヌ民族への関心が高まっています。
観光で阿寒湖やポロト湖などを訪れた方々は、アイヌの歴史や文化・風習についての知識をある程度お持ちかと思いますが、北海道に和人が本格的に入植する以前にアイヌの人々が使っていた道については、ご存知の方は少ないでしょう。
実は、かく言う私も「アイヌの道」については、とんと疎いのですが、「街道の日本史1 アイヌの道:佐々木利一、古原敏弘、児島恭子編」に詳しく述べられていましたので、かいつまんでご紹介したいと思います。
さて、アイヌの道とはどのようなものだったのか、文字を持たないアイヌ民族は口伝えで歴史や文化が継承されてきたことから、正確な実態は不明なのですが、少なくとも江戸時代後期(1800年代)以降は全道の海岸沿いを主要な交通路とし、内陸への移動は川筋を利用していたようで、山の鞍部を越えて山の向こう側に出る道も使われていたことが、アイヌ語で「峠道」を意味する「ルペシペ(ルペシュペ)」という地名が、現在の道東の「留辺蘂(るべしべ)」を始めとして道内各地に残っていることから類推できます。ちなみに、観光名所の中山峠もルペシペの一つとのこと。
ただ、これらの道は、江戸時代の浮世絵に登場する東海道五十三次のような人の往来する道路のイメージとは大違いで、アイヌ語で「道」を意味する「ル」が「足跡」という意味でもあることから「踏み分け道」程度のものだったようです。
これは、考えて見ると当然なのですが、サケや鹿や木の実などを主要な糧として、家族中心の小集団で社会生活を営んでいたアイヌにとって、大量の物を運んだり、遠くまで移動する必要はなく、仮にそういう必要が生じたとしても舟を利用する方が簡単で、わざわざ道路を造る必要はなかったのでしょう。(詳しく知りたい方は、原著をご参照下さい。)
余談ですが、この元ネタ本の「あとがき」がちょっと面白い。「「アイヌの道 」というまるで演歌のようなタイトルに嫌悪感を示した執筆者がいた」そうで、言われてみると確かにありそうな話ですね。
そこで、「アイヌの生活路」という代案が挙がったそうですが、当時のアイヌ社会の実態がよくわからないので不適切ということになり「アイヌの道」に一件落着とのこと。
そもそも「アイヌの道」は、「街道の日本史」というシリーズタイトルとは裏腹に街道とは程遠い小道だったようですから、厳密には「道の日本史」とした方が正しいのかもしれません。本のタイトルは難しいものですね。
小説でも改題を重ねて文庫化されるという例がありますが、今後、アイヌの歴史がさらに分かると、この本のタイトルも内容も変わるかもしれません。
アイヌ民族の暮らし、歴史を知るために白老町を訪れる時には、札幌からだと高速道路ではなく、ルペシペである中山峠を経由していくとその歴史を身近に感じられるかもしれません。
ポロト湖
国立民族共生公園全体基本設計図
建設中の国立アイヌ民族博物館
*上の写真及び図の出典は、国土交通省北海道開発局ホームページ
なお、民族共生象徴空間について、詳しく知りたい方は、下記のホームページをご覧ください。
https://www.hkd.mlit.go.jp/ky/ai/ainu/ud49g7000000ao02.html
(文責:小町谷信彦)
2018年12月第3号 No.48