開拓期にはよく不思議なことが起こった。これは酒に酔った若者が、ないはずの橋をわたったという、ちょっとこっけいで、ぞっとするような、怖い話である。
遠別川はピッシリ山から端を発して、延々40数キロも曲がって延びており、その流域の本原野、中遠別、東遠別、上遠別などに開拓者たちが入り込み、開墾に勤しんでいた。この川には橋がなく、対岸に行くのに、渡し船を使うか馬を用いるしか方法がなかった。
それでも入植して20年ほど経った大正初期(1912年)になると、そこここに吊り橋が架けられ、住民の暮らしはずっと楽になった。しかし吊り橋は何年も経たずに流されたり朽ちたりして、修理しなければならなかった。
治郎兵衛が住んでいる東遠別36号の吊り橋もいつしか壊れて、ワイヤが川面に垂れ下がり、通行できないままになっていた。
春の種まきも済んだころ、隣の集落で結婚式があり、治郎兵衛ら若者たちはそろってその家に押しかけ、窓や玄関を覗き込み、「めんこい嫁さんだな」などとはやしたてた。治郎兵衛は「おらもあんな嫁さんがほしいな」と思った。
宴もたけなわになり、周辺に集まった若者たちにもおこぼれの祝い酒が配られ、近くの小屋に入ってどんちゃん騒ぎの挙げ句、みんなベロベロに酔いしれた。治郎兵衛も正体をなくするほど酔い、夜中に千鳥足でわが家に帰った。
翌朝、目が覚めて治郎兵衛はぞーっとなった。どうやって帰ってきたのだろうか。橋はたしかまだ壊れたままだったはず。慌ててウエンベツ川まで走っていき、橋をみたが、ワイヤが垂れ落ちたまま。とても渡れる状態ではない。
でも俺は間違いなく橋を渡ってわが家に帰った―。
この話はあっという間に集落中に広まり、噂が噂を呼んで、大蛇が吊り橋代わりに川に横たわり、その上を渡ったのだという話にまでなってしまった。治郎兵衛はたちまち集落の人気者になり、その話で持ちきりになったという。
ところで肝心の東遠別の吊り橋はその後、どうなったのか。実はいまは立派な橋が架かっている。橋下を覗くと結構深く、歩いて渡るとなると危険が伴うのは明らかだ。
しかし治郎兵衛は、酔ってこの橋下を渡って向こう岸にたどり着き、わが家まで到着したのだ。酔ったらそんな奇想天外なことも起きるという、開拓期ならではの思わぬ一席。
ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。