砂川市から山間伝いに上砂川町に入るとすぐ、左手にいまは使われていない古い鉄橋が見える。「第2鉄橋」注)と呼ばれ、子どもたちが “度胸試し” に使った橋だというのをご存知かな。
太平洋戦争最中の昭和戦前、この「第2鉄橋」に幽霊が出る、と噂されていた。上砂川町に住んでいた小学5年生の時、友達の一人が「幽霊の正体をあばこう」と言いだした。先生に「日本男児が幽霊なんぞ怖がって恥ずかしくないか」と言われて、反発したのだ。
秋風が吹きだして九月初め。夜遅く集まった3人は、無駄口はきかない、幽霊に直面したら先頭にいた者が「何者かっ」と問う、残りの者は特徴を確認する‥などを決めた。
午前零時過ぎ、3人は提灯に火を灯し、市街地の裏手に延びる鉄道線路を歩きだした。この時間は列車が走らない。降っていた小雨も上がり、絶好の“戦闘日和”だ。誰もがまなじり決して黙々と歩いた。
右手に山が連なっていて、夜、時折、山麓にチカチカ光るものが見えた。子どもたちはそれが“キツネの嫁入りの火”だと信じていた。開拓期から間もないその時期、人間と獣が同居していたので、まことしやかに話されていたのだ。
市街地を過ぎると急にあたりが暗くなり、子どもたちの歩く速度が早くなった。進むにつれて山際が接近してきて、樹木が鉄路に覆いかぶさり、ざわざわと音をたてた。
手前にある「第1鉄橋」の上を恐る恐る歩く。深い谷間に架かるこの高い鉄橋の下を、真っ黒いパンケウタシナイ川が流れている。三井砂川炭鉱の選炭場から流れ出たもので、落ちたらひとたまりもあるまい。
ここから「第2鉄橋」までの4、500mの間が勝負の区間だ。以前、幽霊が出たのはこのあたり。突然、後ろから「おっさん」と呼ばれるのだと聞いた。
と、その時、前方に赤い火がゆらゆら揺れているのが見えた。
「出たっ」。3人は腰を抜かさんばかりに驚き、振り向きざま脱兎の如くいまきた道を逆に走りだした。約束もなにも吹っ飛んでいた。走って、走って、市街地の明かりの見えるところまでくると、ぐったり鉄路に座り込んだ。荒い息を吐きながら「見たか」「見たか」と言い合い、「やっぱり出た。誰にも言うな」と約束し合った。
後で知るのだが、幽霊の正体は担任の先生で、「出会ったらほめてやろう」と思い、一芝居打ったらしい。先生は間もなく出征して戦地に赴き、戦死した。そのことを30年も経て帰郷した折り、恩師の妻君の話として友人から聞かされた。
この砂川―上砂川間の線路は1926年(大正15年)8月、函館本線の枝線として開通し、三井砂川鉱で採掘された石炭を運ぶ重要な路線となっていた。同鉱が開かれたのは1914年(大正3年)だから、鉄道が出来るまでは貨物トラックで砂川駅まで輸送されていたことになる。
この時期、三井石炭鉱業会社は空知地方の夕張、美唄、芦別にも炭鉱を開いており、さらに三菱、住友の各石炭鉱業会社も各地で採炭を始めていたので、大量の作業員とその家族が移住して、石炭ブームに沸き立っていた。
だが政府の石炭政策が大きく陰を落とす。スクラップ・アンド・ビルドと称する優良鉱を残して残りは閉山させるという無残な政策により、炭鉱という炭鉱は相次いで閉山に追い込まれ、1995年(平成7年)の空知炭鉱の閉山を最後に道内の坑内掘りの炭鉱は全部姿を消した。
山間の傾斜面に並んでいた炭鉱住宅は壊されて、いまはもとの自然に戻った。真っ黒に汚れていた川も澄んだきれいな水になった。
そして子どもたちが“幽霊の出る鉄橋”と恐れたあの「第2鉄橋」ともう一つの「第1鉄橋」だけが解体されず残された。
先日、この「第2鉄橋」を訪ねた。道端から望む古びた橋が雑草にまみれて暗く沈んでいた。
隆盛をきわめた炭鉱が消滅してはや半世紀。幽霊話もする人など誰もいない。見捨てられたような老いた鉄橋だけが、歴史の変遷を偲ばせて立っている。そう思うと複雑な感慨が胸を突き、瞼が熱くなった。
注)「第2鉄橋」 北海道空知郡上砂川町下鶉の先(砂川寄り)にあり。
ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。