橋の名に込めた感謝の念

 旅をしていて、心温まるような橋の名にぶつかることがある。岩見沢にある「雨読橋」もその一つ。この橋の近くに空知農業学校(現在の岩見沢農業高校)があり、“雨読先生”と呼ばれる名物先生がいた。
 雨読とは「晴耕雨読」からきたもので、晴れて耕し、降って書を読む、の意。実学の尊さを示す言葉で、先生はよくこの言葉を口にし、実践した。生徒たちもそれに従った。
 学校に通じる道を遮る川に橋が架けられることになり、生徒たちは、この橋の名を先生の名にするのが相応しいと相談した。ところが誰も先生の本名を知らない。他の先生に聞いても「わからない」と笑うばかり。
 そうこうしているうちに立派な橋ができ上った。生徒たちは我こそ一番乗り、とばかりにこの橋を通り、その素晴らしさに手をたたいて喜んだ。以来、誰言うとなくこの橋を「雨読橋」と呼ぶようになったという。
 時移り、雨読先生は退職した。生徒たちも卒業して散り散りに去っていった。そして雨読橋という名の橋だけが、いまも通る生徒たちを見守っている。
 話をもう一つ。オホーツク管内遠軽町瀬戸瀬を流れる湧別川に架かる「救世橋」は、その名の通り、救世軍の小隊長が私財を投じて作った橋だ。この町に救世軍小隊が置かれたのは1913年(大正2年)小隊長の田中弥三郎は湧別川を隔てた瀬戸瀬地区に分隊を配置する計画を立てた。だが湧別川の増水期や融雪期になると渡船は動かず、交通が途絶するのを知り、橋を架けようと思い立った。信者のほか瀬戸瀬地区の住民も喜んで協力した。
 田中小隊長は救世軍本部に救助金を頼み込んだが、「橋より生活に困っている人の救済が大事」と言われたので、自分の給与の半分を投じて大工、石工を雇い、自らも作業員になって工事に参加し、苦労を重ねて二年後に、長さ53.4メートル、幅4メートルの橋が完成した。地区の人々はこれで難儀せずに通えると喜び合った。
 田中小隊長はほどなく遠軽町を去ったが、1920年(大正9年)、橋が痛みだしたのを見た住民たちが感謝の念を込めて、自分たちの手で補強した。二年後の夏、大水で流された時も、やはり住民の力で再建した。1943年(昭和18年)に新たな木橋ができ、さらに1965年(昭和40年)にはコンクリート造りの永久橋に架け替えられ、行き来する人々の足を守った。
 救世橋は大正、昭和、平成、令和と一世紀の時を越えていまも脈々と息づいている。

合田一道(ごうだいちどう)

ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。