北広島市から共栄を過ぎて札幌へ向かう途中、険しい崖が迫る道筋に、裏の沢川が流れており、そこに「御幸橋」という小さな橋が架かっている。この橋は昔、「みすて橋」と呼ばれていたという。その名前の由来が、あまりにも哀しい。
明治末期の十一月末、雪が降りしきり、寒風が吹きすさぶ中、うらぶれた若い女性の旅人が、この橋のあたりで急に産気づいた。女性は寒さと疲労に打ち震えながら、誰の手も借りずに赤子を出産したが、赤子はすぐに亡くなってしまう。女は冷たくなった赤子を抱いたまま、力尽き絶命する。
降り続ける雪は、やがて母子の姿をすっぽりと覆い尽くした。しばらくして通りがかりの人が遺体を発見し、形ばかりの葬儀をして遺体を墓地に葬った。以来この橋は、誰いうことなく「みすて橋」と呼ばれるようになった。みすての意味は、見捨てか、身捨てか、あるいは両方かもしれない。
女は、名前も年齢も、生まれた府県も不明だが、北海道へ出稼ぎに出たまま帰らない夫を探して、懐胎の身で津軽海峡を渡ってきたものとわかった。女は函館に着くと松前、江差、瀬棚と西海岸を回り、さらに渡島半島を横断して長万部、伊達を経て室蘭に着いた時は、短い北の夏が過ぎ去っていた。
この間に女の腹は日に日に膨らみ、持ってきた僅かな金も使い果たし、まるで浮浪者のような姿になっていたが、夫に会いたい一念だけが心身を支えているように見えたと、会った人々は口を揃えて言う。
夫は札幌にいるかもしれない、と思ったのだろうか。身重な女は、苫小牧から千歳、漁(恵庭)を経て、広島村(現北広島市)まできたが、すでに十一月も末になり、寒風が吹雪を伴って吹きすさんでいた。そんな最中、腹が急に痛みだす。女は必至の思いで出産するが、ついに息絶える。
村人たちはその死を哀れみ、語りながら、この橋を「みすて橋」と呼んだ。
その後、集落の人たちが、みすて、はあまりにも可哀そうだとして、あの世で幸せになるようにと、改めて「御幸橋」と名づけたのだった。
このあたりは昔は急な崖があり、それに沿って裏の沢川が流れていたが、いまは道路の改修工事で、すっかり様変わりした。御幸橋も改修されて、悲惨な母子の話を知る人もいなくなった。ただ吹き渡る風だけが往時の名残りを伝えて、哀しい。
ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。