留萌管内遠別町大成に念仏峠という峠がある。この峠には仏様がおられて、通行人を無事に案内してくれるのだという。
遠別町が開かれたのは焼尻島に居住していた秋田県人が明治18(1885)年夏、漁業に従事中、大時化(おおしけ)に遭遇し、遠別海岸に漂着したのがきっかけ。3年後の明治20年、7人の漁民を連れて入植し、漁業をしながら原野を開拓を始めた。
物語の舞台は遠別市街から遠別川沿いに延びる国道688号を30キロも逆上った地域。共栄、東野、大成、そして正修で行き止まりになる。明治末から大正期にかけてこの地域に開拓たちが入植し、原始林を切り倒し、掘っ建て小屋を建て、開墾に勤(いそ)しんでいた。
奥地の大成や正修からは市街地に出るには遠いうえ、満足な道もなく、しかも途中、険しい峠があるので、野宿しても3,4日はかかる。よほどのことがない限り、出かけることはなかった。
秋も深まりだしたある日、正修地区の開拓者、長三郎は、久しぶりに市街地へ出かけた。食糧が底を尽きだし、日用品も少なくなっていた。朝早く家を出て、3日がかりで市街地にたどり着き、大事な品物を買い込んだ。その日は泊まり、翌朝早く、大きな包みを背負い、歩きだした。
途中、にぎり飯を食べてまた歩き出す。険しい念仏峠に差しかかるころ、日が暮れてきた。冬になるのを前に、クマは栄養を体に蓄えて穴ごもりする。なぜか大クマが現れそうな気がして長三郎は思わず身震いした。
どこかで草木がざわざわと鳴った。長三郎はたまらず、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と唱えながら、峠道を駆けだした。何者かが背後から迫ってくる。全身から汗が噴き出した。
その時、前方に、ぽーっと灯明(とうみょう)のような光が現れ、灯影が浮かんだ。驚いてよくよく見ると、なんと仏の姿をしているではないか。しかも仏は、こちらに向かい、おいでおいでと手招きしている。
「仏さまだ。ありがたや、ありがたや」
長三郎はいままでの恐ろしさも吹っ飛んで、大声で念仏を唱えながら仏の灯影を追って走りだした。
こうして長三郎は無事に正修の集落にたどり着くことができた。
この話を聞いた集落の人たちは、峠を通るときは念仏を唱えていけば仏に守られると信じ、いつしか念仏峠と呼ばれるようになったという。
念仏峠は遠別大成の丘陵地にあり、道路脇に「念仏峠」の標識が見える。だが集落に住む人は少なくなり、こんな話を知る人ももういなくなった。
ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。