美泉定山が架けた初めての橋

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 札幌に初めて登場した橋は、開拓使により札幌本府近くに架けられた「創成橋」であろう。では、民間が架けた橋はとなると、明治5(1872)年、修験僧の美泉定山(みいずみじょうざん)が定山渓温泉を流れる豊平川に架けた「回春橋」(現在の「月見橋」)と判断できる。
 定山はアイヌ民族の若者の案内で、逗留中の小樽・張碓から山越えして豊平川上流に至り、噴出する温泉を見つける。慶応2(1866)年のことだ。だが定山より早くに発見した人物がいた。札幌の先駆者とされる早山清太郎である。
 定山は早山に会い、「貴殿(定山のこと)一代限リ貸渡ノ事」と定めて温泉場を借り受ける。折しも明治維新を迎え、開拓判官島義勇(しまよしたけ)が札幌入りすると、湯治と祈祷で人々を救済したいと訴え、温泉開発を願い出る。島は約束するが僅か3か月で札幌を去る。

定山像(定山寺蔵)

 明治3(1870)年春、京都・本願寺の現如上人一行が、有珠郡西長流から札幌まで27里(108㌔)の山道掘削を始めた。後の「本願寺道路」である。この視察に訪れた参議副島種臣(そえじまたねおみ)、開拓長官東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は定山と会い、励ます。以来、地名は定山渓に定まる。

 定山は札幌に出るたびに、豊平川の渡し守の志村鉄一や、豊平に入植した元仙台藩士の中目文平らと会い、親交を深めた。その一方で開拓使御用達の石川正蔵から資金援助を受け、道路開削に没頭した。
 明治4(1871)年、島の後任として札幌入りした岩村通俊判官は、定山に案内されて温泉場を訪れ、その湯量の多さに感動し、定山に湯守を命じる。

石川正蔵宛の定山の便り(定山寺蔵)

 明治5(1872)年、定山渓の豊平川に初めて橋が架けられた。定山は喜び、「回春橋」と名付けた。病んでもまた春が巡ってくるとの願いを込めたものだ。現存する「北海道石狩州札幌府南定山渓温泉真景之図」(北海道大学付属図書館)はこの年9月、檪堂(れきどう)という人が描き、定山が版木に彫ったもので、右上に開拓使役人、白野夏雲の次の一首が見える。後に札幌神社(後の北海道神宮)宮司になる人物である。
  天駆し地に伏し人を待得たる 今日しも開くさちほろのやま 夏雲

北海道石狩州札幌府南定山渓温泉真景之図(北海道大学付属図書館)

 ところが翌明治6(1873)年夏、大雨が降って大洪水が起こり、温泉場は浸水し、橋まで流されてしまう。開拓使の経営も厳しさが増した。定山は湯守を辞退し、自力で温泉を守る決意を固め、温泉場を妻や使用人に任せて托鉢に出かける。
 定山の夢は、あくまで温泉場まで歩ける道路をつけることだが、托鉢だけでは荷が重すぎた。橋だけは何とか架け替えたものの、肝心の道路工事は資金が続かず中断したまま。
 明治10(1877)年晩秋、定山は托鉢に出たままぷっつり消息が途絶えた。温泉場の雇人、佐藤伊勢造は「坊さんが帰るまで私がやり抜く」と述べ、妻キンは幼い養子を連れて、札幌の平岸村へ移った。だが定山はついに帰ってこなかった。やがて「明治11年暮れ、行方不明」という1年遅れの定説が作られていく。
 それから1世紀を経た昭和54(1979)年晩秋、小樽・正法寺が古文書類を整理中に、定山の過去帳が発見される。驚いた同寺総代はこの話をなぜか筆者に伝えてくる。拙著『北海道ロマン伝説の旅』を読み、思い余っての通報だった、と後に知った。
 すぐに調査に取りかかったが、亡くなった場所も、死の原因もわからず、難渋を極めた。定山の出身地の岡山県吉井町の繁昌院を訪れ、定山に繋がる家系の人物に会い、墓碑に詣でるなどしたが、ここでも資料はまったくなかった。
 ただ定山の父、母の墓、さらに妹などの墓があり、定山には幼くして亡くなった妹が二人いた事実が判明した。また母は隣町の岩見田村の自性院という寺の出で、その近くに湯郷温泉が存在するのを知った。温泉を訪ねて円仁という僧の発見により温泉が開かれたのを知り、不思議な思いを抱いた。
 以上から母は病弱な幼い娘を連れて実家に帰り、近くの湯郷温泉を訪れて湯治による治癒を繰り返していたのではないか。その時、少年だった定山も同行して温泉に赴き、病に悩む多くの人々を見たのではないか、と推測した。
 だが二人の姉妹は相次いで亡くなる。定山の胸に衆生を救わねばならぬという思いが強く沸き立った‥。定山が最後まで温泉にこだわった理由がここにあった、と思えた。

 取材を進める中で、定山の末裔が名古屋にいることがわかり、昭和56(1981)年10月3日、定山寺と正法寺で末裔も出席して法要が営まれた。
 これにより小樽の正法寺には定山の墓碑が建立された。定山渓温泉の定山寺には、定山にまつわる仏像や法螺貝(ほらがい)、書物などが安置され、ゆかりの寺と重きをなしている。
 定山が名付けた「月見橋」の真ん中に立った。もとより最初の橋から数えて六代目だから、昔と違ってコンクリート造りの橋である。ここから眺めると、眼前に常山(つねやま)という名の山がくっきり見え、定山の影が茫々と浮かび上がってくるのを感じた。

美泉定山法印の墓=正法寺

定山が開いた定山渓温泉に架かる月見橋

合田一道(ごうだいちどう)

ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。