ロシアの文豪トルストイに若い日本の女性がファンレターを出したら、本人からサイン入りの写真を添えた返書が届いた。文豪と読者を結ぶ”便りの架け橋”―、もう百年以上も前の驚くような話だが、その便りがいまも札幌市東区の札幌村郷土記念館に展示されている。
話は明治41(1908)年までさかのぼる。ファンレターを書いたのは札幌村21番地(現在の札幌市東区北12東16)で生まれ育った村木(後に結婚して熊岡姓に)キヨという18歳の若い女性。父村木新右衛門、母きんの四女。便りを書き上げるとすぐ、郵便ポストに投函した。
キヨは札幌村藤古小学校から庁立札幌高等女学校(現在の札幌北高)に進学するが、そのころからトルストイ文学に陶酔し、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などの作品を読みふけった。また短歌も詠む文学指向の女性だった。
一方のトルストイはロシア貴族の名門の家に生まれ、この時期は全領地を農民に解放する人類救済をテーマとした数々の名作を発表するかたわら、実際に人々を助ける救済運動を続けていた。
キヨが遠く離れたこの文豪にファンレターを送ったのは、作品だけではなく、こうした愛と勇気ある行動に、心を動かされたのであろうと推察できる。
だがこの時期は、日露戦争に勝利したわが国が世界に躍り出たころで、日ロ両国の領土権の尊重などを定めた日露協約が調印され、その一方で日米紳士協約が発効されるなど、国中に高揚感が高まっていた。
トルストイ
トルストイがこのファンレターを手にしたのは、モスクワから南170㌔にあるトウーラの療養地だった。トルストイは返事の代筆をV・チャルトコフに頼む。
返信は1908年8月17日に書かれ、2か月かけてキヨの元に届いた。文面にはこう綴られていた。(以下、和文に訳す)
拝啓 レオ・トルストイは7月12日付の貴信を確かに受け取った旨、あなたにお知らせするよう、私に依頼がありました。彼は、あなたの親切な お言葉に大変感激し、このような遠い国に住む人と精神的に結びつけたことを喜んでいる次第です。
あなたが今後、ますます精神的に向上されるようにと願っていると、伝えてほしいとのことです。そして、ここにサイン入りの写真を同封しました。代筆 V・チャルトコフ
トルストイからの手紙の文面
キヨがこのロシア文豪からの写真入りの便りに驚愕したのは無理もなかろう。学校内はもとより集落全体が驚き、喜んだのは想像に難くない。
この写真入りの便りは一世紀の時代を経て、いま札幌市東区の札幌村郷土博物館に展示されている。
キヨのその後にも触れておきたい。少女時代から短歌に親しんでいたキヨは、大正から昭和初期にかけて短歌『あららぎ』に投稿を続けた。この間、網走の熊岡四郎に嫁いだが、文学へのあこがれは消えなかった。
皇居の歌会始めに選ばれるのが夢で、60歳のころから10数年にわたり作品の応募を繰り返したが、叶わなかった。昭和39(1964)年、74歳のころから自らの集大成とも言える短歌を10首ずつ、北海道短歌年鑑に投稿し続けた。そのころの作品一首を掲げる。
われ生まれし屋敷の前の細き路かわらぬままにあるを踏みゆく 熊岡清子
この間に両親や姉妹を早く亡くし、夫とも死別したキヨは、幼かった長男を育て上げた後、約40年ぶりに網走から故郷の札幌村へ戻る。その後、昭和47(1972)年、石狩町花川で亡くなる。82歳だった。
文豪の便りは長く同宅に保存されていたが、キヨ亡き後、長男により札幌市郷土記念館に寄贈された。以来、日本とロシアを繋ぐ貴重な便り、として展示され、異彩を放っている。
ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。