屯田兵制度とは、訓練に励みながら家族とともに開墾に精を出し、いったん事が起こると鍬持つ手を銃に持ち替え出陣する組織をいう。わが国では北海道だけに存在した。
初の屯田兵が札幌・琴似村に入植したのは明治八(1875)年。屯田第一大隊第一中隊の198戸、965人。その中に維新戦争に敗れて ”逆賊” とされた旧会津藩士56戸とその家族が含まれていた。
隊のまとめ役になったのが、元会津藩士で准伍長代務に任ぜられた三沢毅、32歳。上層部は薩摩ばかり。だが三沢は、世の中が変わったのだ、と自らに言い聞かせた。訓練が始まると案の上、兵士の間で薩摩一色の上層部に対する不満が聞こえてきた。三沢はそのたびに「我慢するのだ」となだめ諭した。
翌九(1876)年春、発寒村に32戸が入植し、琴似村の第一中隊に吸収合併された。一方、札幌・山鼻に240戸が入植して第二中隊が出来て、大隊の体制が整った。
この時期、熊本の神風連の乱をはじめ各地で士族による暴動が起こり、明治十(1877)年二月、ついに西南戦争が勃発した。陸軍中将で開拓長官の黒田清隆は、屯田兵第一、第二中隊に出陣命令を出した。
「なにっ、我らが官軍で西郷が賊軍ということかっ」
准曹長に昇格したばかりの三沢は、全身を振るわせて叫んだ。ロシアの侵略に目を光らせるべき屯田兵が、国内戦に出陣するのだ。しかも相手が西郷軍とは。いまこそ逆賊とされた無念をはね返す好機ととらえた。一瞬、脳裏にあの日が浮かび上がった。
あの日、会津鶴ヶ城は新政府軍の猛攻にさらされた。なぜ我らが朝敵なのか。それは官軍を標榜する薩摩、長州らの作為によるものであり、絶対に許せなかった。激闘一か月の果て敗れ、藩は斗南藩と名を変えて下北半島へ ”流罪”。腸(はらわた)が煮えくり返った。耐えに耐え、巡りめぐっていま、われらが官軍として憎っくき薩摩を討つのだ。
十五日、堀基本部長、永山武四郎野戦第一大隊長率いる第一、第二中隊の兵士483人は兵村を出立、兵村そばに架かる発寒橋をなごり惜しげに渡った。この橋の下を流れる発寒川(現・琴似発寒川)は兵士らが訓練後に体を洗い流す大事な場所だ。
小樽まで30キロの道を歩いて輸送船に乗り込む。途中暴風雨に叩かれるなどして熊本の百貫石に到着。出撃命令を待つ宿で、老女が薩摩出身の幹部に向かい、「西郷さんの味方をしてくだされ。この通りじゃ」
と頭を畳にこすりつけて頼む姿を目撃した。困惑した幹部が、
「われらは命令通りに動くだけ」と苦しい言い訳をするのを聞いた三沢は、薩摩と薩摩の戦いなのを改めて実感し、上司の動きを警戒せねばならぬ、と肝に銘じた。
屯田兵像(札幌市西区;著者撮影)
屯田兵屋(北海道大学付属図書館蔵)
琴似屯田の発寒川に架かる発寒橋
だが不測の事態は起こらず、別動隊第二旅団に加わった屯田部隊は大河内の西郷軍を攻撃した。「東京日々新聞」は「すこぶる勇猛 賊死骸を捨てて走る」と戦果を伝えた。
西郷は自刃して西南戦争は終焉した。戦いに勝利したとはいえ、味方の兵士合わせて8人が戦死し、三沢の直属上司の中隊長は戦闘中に体調を崩して病死した。凱旋する三沢の胸に、言葉にならない虚しさがこみ上げた。
戦いとは何か。勝つことで会津藩の無念を晴らせたとはいえ、それが到達点とは思えない。われらはみな同胞。いつまでも相争うのではなく、目を見開き、わが国を狙う外敵こそ排除せねばならぬ。三沢は自らにそう言い聞かせ、深い溜め息をついた。
三沢は准少尉に昇格し、小隊長に任命された。逆賊・会津藩士出身者は絶対になれぬと言われたポストだけに、同郷の後輩たちが三沢のもとに集まり、感激の祝杯を上げた。
三沢毅
明治十八(1885)年、制度が改正されて、屯田兵は「陸軍兵の一部」になり、階級も「准」がはずれた。同二十(1887)年、三沢は大尉に昇進し、新たに誕生した新琴似屯田(第一大隊第三中隊)の中隊長に任命された。だが隊員の多くはかつて官軍と呼ばれた鹿児島、佐賀、熊本、福岡などの出身者ばかり。気ぐらいが高く、不平、不満が多く、勝手に行動する者が目立った。三沢は、
「いまは勤王も朝敵もない。みんなで力を合わせて国を守るのだ」
と説いた。初めは鼻先で笑っていた兵たちも、やがてその真摯な態度に共感して、かえって筋の通った中隊長だと尊敬するほどになった。
道内各地に兵村が増えていき、屯田兵組織はしだいに固まっていった。だがこの頃から三沢の体に異変が起こりだす。明治二十一(1888)年、体に無理はかけられないとして、新設の監獄長に退いたものの体調は戻らず、療養生活へ。
やがて朦朧として眠る日が多く、復帰できないまま明治二十四(1891)年十二月三十日、忽然と亡くなった。48歳の余りにも短い生涯だった。隊内に悲しみが溢れた。
だが、朝敵の屈辱をばねに ”屯田魂” を燃やし続けた三沢の生きざまは、祖国を守り抜く根幹となり、多くの兵士の精神的な柱となった。
いま琴似の町を歩くと、屯田兵に関わる遺跡に触れることができる。西南戦争に赴く兵士が渡った発寒橋は、以後、何度も架けかえられたが、ここに立つと、三沢ら屯田兵士の雄叫び(おたけび)が聞こえてくるような思いにかられる。
本稿を執筆するにあたり、梶田博昭北海道屯田倶楽部会長、永峰貴琴似屯田子孫会事務局長らにお世話になりました。
ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。