島義勇が描いた札幌の町
ノンフィクション作家 合田一道

公開

 私たちの住む大地が、蝦夷地から北海道へと名を替えたのは明治2(1869)年8月15日。すでに1世紀半が過ぎた。北海道開拓の先駆けとなったのが開拓判官島義勇(しまよしたけ)。47歳。肥前国佐賀藩(九州佐賀県)の武士。
 島は妻女を同行して、どんな思いでこの大地を踏みしめたのか。その行動を辿ると、決死の思いで開拓へ立ち向かった姿が蘇ってくる。
島が開拓長官東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)はじめ岩村通俊、松本十郎、竹田信順判官ら、さらに東京府内で募集した移住民200人とともに、イギリス船テールス号で品川を出航し、箱館に着いたのは明治2(1989)年9月25日。現在の太陽暦に直すと10月29日に当たる。晩秋の色彩が一際濃い。
 箱館から陸路を辿り、山越内を経て長万部(おしゃまんべ)へ。ここから長万部川の流れに沿って黒松内山道を進む。途中、朱太川(しゅぶとがわ)沿いに下って歌棄(うたすつ)、寿都(すっつ)へ。このコースは東西二つの蝦夷地を結ぶ大事な道路だが、ぬかるみの悪路続きで、一行は難渋を極めた。現在もこの道路の重要性は変わらないが、紆余曲折するコースは整備されてかつての面影は感じられない。

島義勇のプロフィール

 島らは寿都から今度は海岸線に延びる難路を、寒風に打たれながら磯谷まで歩いた。ここから船で岩内まで行き、再び陸路に戻って積丹半島の基部を横断する形で進んだ。険しい山道を喘ぎながら行くと、やがて稲穂峠に至る。峠に宿があったので、島ら一行はそこで休息した。この時に詠んだ「発巌(岩)内趣山中笹家」の次の漢詩碑が峠に立っている。

 雷霆山下一径通 雷霆(らいてい)山下に一径通ず
 満天飛雪舞北風 満天の飛雪北風に舞う
 我着錦袍肌欲凍 我は錦袍(きんぽう)を着るも肌凍えんと欲す
 尤憐郷導白頭翁 尤(もっと)も憐む郷導の白頭翁(はくとうおう)

 詩意は、北風が吹き、雪が舞い飛び、自分の着衣は凍りついた、一番憐れなのは案内の白髪頭の老人だ、とい
うもので、初冬を迎えたばかりの北国の自然の凄まじさを伝えている。
 このコースが現在の国道5号(通称羊蹄国道)の原型で、往時は原始の姿を留めた難所中の難所とされたが、いまは稲穂峠の下を稲穂トンネルが延びており、容易に通過することができる。

稲穂峠に立つ島義勇の漢詩碑(筆者が撮影)

 一行はこの峠を越えて日本海の海岸線に出た。海沿いに歩いて小樽の銭函に着いたのは10月12日。現在の暦に直すと11月14日に当たる。東京を船で発ったのが9月20日だから、ここへ至るまで23日間かかった計算になる。野宿を重ねた長旅であった。
 島が本府建設を目指して札幌に乗り込んだのは11月10日。すでに雪の季節になっていた。島は早山清太郎に案内されて、コタンベツの丘と呼ばれる小高い山に登った。現在の北海道神宮裏参道のあたりである。眼前にうっすらと雪原が広がり、南北を貫く大友堀(後に創成川と改称)が望まれた。下流に元村(現在の札幌市東区北13条東16丁目付近)が存在するのを知った。幕吏大友亀太郎が維新前に開いた堀と集落である。
 島は開拓三神を祭る位置をこの丘と定め、次の七言絶句を詠んだ。

  三面山囲一面開 三面は山囲みて一面は開く
  清渓四繞二層堆 清渓四繞す二層の堆(おか)
  山渓位置豈偶璽 山渓の位置豈(あ)に偶璽(ぐうじ)ならんや
  天造応期社地来 天造応(まさ)に社地を期せしなるべし

 1世紀を経たいま、この丘を登ると、島の詠んだ漢詩の光景が一望され、その判断の的確さを知ることができる。
 神社敷地を選定した島は、大友亀太郎が掘削した大友堀を利用した開拓を始めた。現在の南1条西1丁目の角を起点と定め、大友堀とほぼ直角に大通を通して、その北側を官庁街に、南側を一般住宅街と定めた。雪の季節にも関わらず工事は想像したより、順調に進んだ。
 それにしても明治政府はなぜこれほど、札幌の開拓を急いだのか。最大の理由はロシアの南進政策への対応、そしてもう一つが幕藩体制から天皇政権になり、戊辰戦争の敗北武士団とその家族を救出する対応を迫られていたのだ。
 事実、この前年の明治元(1868)年晩秋、旧幕府(徳川家)海軍副総裁榎本武揚(たけあき)が軍艦など8隻
を率いて蝦夷地(北海道)に脱走し、新政権を樹立した。翌2年春、新政府軍の攻撃により鎮圧されたが、島に
よるこの札幌(石狩)大府建設こそ、天皇政権の威厳を示すうえからも、絶対に成就させねばならない国家の
重要課題なのであった。
 こうした背景のもとに北海道開拓は始まった。大勢の労働者たちは早朝から日の落ちるまで働きづめに働いた。
だが開拓を急ぐ余り、開拓使の仕事と並行して、他省庁や諸藩にも開拓の仕事を分割して与えたので、小樽周辺
を担当した兵部省と仕事が重なって、思わぬ弊害が起こり、島を悩ませた。
 それに輪をかけたのが、食糧を積んで航海中の貨物船が沈没し、作業員らの食糧が尽きて危機に迫られたこと
だ。やむなく地元の漁業請負人を役人に取り立てて、米を出させるなどして切り抜けたが、このため開拓使の資
金はたちまち枯渇してしまう。
 これを知った開拓長官東久世通禧は、島が長官を無視して独断で工事費を湯水の如く使ったと激怒し、「長官
の私を切るか、島を切るか」と太政官に迫った。困惑した太政官は島に召喚命令を出す。島は愕然となり、わず
か3か月で去っていく。
 これにより島の北海道開拓にかけた夢は無残に崩れ去った。東京に戻った島は大学少監を務めた後、幼い明治
天皇の侍従になり、さらに秋田県権令を務めるが、大蔵大輔(おおくらたいふ)と対立して免職になる。
 明治7(1874)年2月、島は太政大臣三条実美に呼ばれ、故郷の佐賀で危険な動きがあるので鎮圧するよう密命を受けて、故郷に向かうが、逆に同郷の士とともに「佐賀の乱」を引き起こし、処刑になる。無残な最期だ
った。だが島が手掛けた北海道開拓はその後を継いだ多くの人々に継承され、大きく花開いていく。
 かつて島の部下だった農民、福玉千吉は、島の死を悼んで札幌神社(後の北海道神宮)の境内に桜の苗木を植
えた。それがやがて成長して、春になると桜が爛漫と咲き誇る名所になった。
 北海道神宮では毎年、島の命日の4月13日、境内に立つ島判官像前で顕彰祭を催している。札幌市役所正面玄関には札幌の町づくりの先頭に立つ島像が安置されており、台座に島の詠んだ漢詩が刻まれていて、往時を偲ばせる。

合田一道(ごうだいちどう)

ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。