知人の運転する車で寿都町へ向かった。途中、高速道路を辿ってたっぷり二時間余り。
目的地は寿都(すっつ)町歌棄(うたすつ)あの「江差追分」に歌われた「忍路(おしょろ)高島及びもないがせめて歌棄磯谷まで」の歌棄である。遠い昔、小樽の忍路、高島は魚がよく採れた。そこまでは無理でも、せめてその手前の歌棄か磯谷まで行きたいという歌詞だ。歌棄も磯谷もかつては千石場所とうたわれた好漁場で、その名残が歌にこめられている。
この寿都町歌棄に建つ教立寺に、珍しい「閻魔大王と地獄の裁判官群像」が安置されている。何度か訪れているが、今回は久々の訪問なだけに。心が昂(たかぶ)った。
宗川啓晨住職夫妻に迎えられ、早々に本堂へ。廊下が地獄に通じる橋である。上段の中央に、両眼をかっと見開いた閻魔大王。その両側及び一段下に10体の裁判官がずらり並んでいる。厳粛な雰囲気があたりを支配していて、思わず頭を垂れた。
なぜここに閻魔像と地獄の裁判官像が置かれているのか。話をひもとくと北海道が蝦夷地と呼ばれた遠い時代まで逆上る。
安政3(1856)年、幕府は松前藩から蝦夷地の支配を取り上げて直轄地とし、内陸に幾つかの山道を開いた。ここを通る黒松内山道もその一つで、寿都から黒松内の蕨岱(わらびたい)を経て長万部(おしゃまんべ)に至る。
ところが通行人が増えだすにつれて、悪質な犯罪が目立ち始めた。旅人を襲って金品を奪うばかりか、命まで狙う殺人魔まで出没するので、通行人は戦(おのの)きながら山道を歩いた。
山道の南口に当たる蕨岱に居を構えていた医師の森田利三郎、53歳は、相次ぐ事件の発生に憤然となった。森田は和歌山県出身と記録に残っているので、紀州藩、田辺藩、新宮藩の三藩のいずれかで医者として暮らすうち、何らかの事情で蝦夷地に赴いたものと思われる。
山賊の出没に頭を悩ました森田は、思案の末に自宅近くに閻魔堂と称する祠(ほこら)を建て、閻魔大王を中央に据え、両脇と前段に裁判官や検察官を10体並べた。そのそばに地獄絵を2枚、掲げた。生前悪行を重ねた者は、死後、地獄に堕ちて苦しむ模様を描いたものだ。
森田は閻魔堂にぬかずく旅人に対して、集団で通行するように、悪人が現れたら、一斉に呪文を唱え、
「山道で悪さする者は死後、必ず閻魔大王の裁きを受けるぞ。悪心を抱く者は閻魔様に謝罪しろ」と叫ぶよう指示した。
旅人たちは出発前、閻魔堂にぬかずき、無事に山道が通行できますようにと祈った。

山道を通る旅人を悪者が襲うと、一斉にこの言葉を口々にし、「殺されたら幽霊になって化けて出るぞ。なむあみだぶつ」などと叫ぶので、悪党はすかり竦(すく)んでしまい、いつしか姿を消してしまった。
森田の作戦はまんまと成功した。閻魔堂の賽銭箱は日々、賽銭が入り、文久3(1863)年の記録によると60両にもなったので、それを資金に道路を修理したとある。
森田は明治5(1872)年、68歳で亡くなったが、閻魔像と裁判官の群像、そして2副の地獄絵は森田の子孫により、教立寺に寄進された。閻魔像と群像は以後、明治から大正、昭和、平成を経て令和の現在まで、1世紀半の時を超えて鎮座している。
車でこの方面を通る方はぜひ拝観をお勧めしたい。(電話 01366-4-5078)