空知管内秩父別町に、神様が架けた二つの橋の物語が伝えられている。開拓期に生まれた話だが、動物が出てくる民話のような匂いがする。秩父別が深川村から分村して誕生したのは明治34年だから、それよりはるか前の遠い遠い昔の話だ。
そのころの秩父別はまだ村にもなっておらず、開拓者たちは小川の両岸辺りに入植し、畑を耕し、川水を用いて暮らしていた。小川には橋が架けられていて、子どもたちはこの橋を渡って行き来し、仲良く遊んでいた。
ところがある年、日照りが続き、作物が枯れて育たなくなった。さぁ、大変。岸辺の人々の中には小川をせき止めて、自分だけ使えるようにする者もいて、怒った川下の人たちは大事な橋まで壊してしまった。
橋がなくなった川辺の子どもたちは、向こう岸へ渡ることができなくなった。向こう岸の子どもに「遊びに行きたいけど、行けないよ」と大声を上げた。向こう岸の子どもたちも「会えないなんて寂しいよ」と叫んだ。
こちらの岸辺には石の地蔵が立っていた。草むらに棲むタヌキたちが「これじゃあ、子どもたちが可哀そうだ。おらたちで橋を架けてやろう」と話し合い、一夜で橋に化けた。
翌朝、畑に出た農民は、タヌキの仕業に違いないと怒り、橋を叩き壊した。タヌキはみんな大けがをしてほうほうの態で逃げ帰ったので、橋は消えてなくなった。
こちらの岸には稲荷の小さな祠があり、近くの草むらに棲んでいたキツネたちが「これじゃあ、子どもたちが可哀そうだ。おらたちで橋を架けてやろう」ということになり、一夜で橋に化けた。ところがこれもまた翌朝、農民に見つかり、叩き壊された。
タヌキもキツネもすっかり腹をたてた。このことがあって以来、両方の村に不思議なことが相次いだ。知らないうちに芽の出たばかりの畑を歩かされたり、風呂に入ったつもりが肥溜めに入らされたりした。人々は困ったことになったと頭を抱えた。
それから何年か経ったある夜、ひどい風が吹き荒れて、翌朝、嘘のように止んだ。両岸の人たちは畑に出て驚いた。地蔵の脇の大木と稲荷の脇の大木が根こそぎ倒れて、まるで二本の橋のように並んでいるではないか。
両岸の人たちは「これは神様が作ってくれたに違いない」と、倒れた木を用いて立派な橋を並べて作り、橋の杭にお互い「地蔵橋」「稲荷橋」と書いて、盛大な祭りをした。これがきっかけで対岸の村は一つにまとまり、仲良くなり、大いに栄えたというお話。
一読してたわいない話に思えようが、電気もなにもない荒野の開拓は、互いが協力し合わなければ何事も叶わなかった。そんな時代の教訓と位置づけると、素直にうなずける。
ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。