三笠市立博物館の裏手にある遊歩道を進み、案内板に導かれて木の階段を上ると、目の前に錆色の櫓(やぐら)が忽然と現れる。旧北炭幾春別炭鉱の錦立坑。轟音を響かせて石炭を産出し、廃坑によって動きを止めて65年。重々しい存在感を放ちながらも、時が止まったように木々の緑に沈む、あまりに静かな佇まいである。
明治の初頭から石炭は、昭和の半ばに石油にその座を譲るまで、日本のエネルギーの主役であった。近代化をけん引する蒸気機関の燃料として、あるいは製鉄に欠かせない資源として、増産、また増産が叫ばれた。北海道は九州と並ぶ産炭地。とりわけ埋蔵量が豊かな空知地方は「炭鉱銀座」だった。
三笠市では1879(明治12)年に幌内炭鉱が開鉱し、その6年後に幾春別炭鉱の開発が始まる。ともに官営としてスタートし、その後、払い下げを受けた北海道炭鉱汽船(北炭)が担うことになる。
現存する櫓の中では道内で最も古いという錦立坑櫓は1920(大正9)年に完成している。柱の鉄骨には九州・八幡製鉄所の刻印があり、100年以上前の国内の物流の一端や往時の技術のレベルを物語る。
この立坑は、地上の櫓は約10㍍だが、地底の深さは約200㍍に達する。
炭鉱とは、「地底の王国」と言えるのかもしれない。地上の建造物からは推し測れない規模の坑道が地底奥深く、様々な先端技術を駆使して縦横無尽に張り巡らされていく。そこは、常にガス爆発や火災、落盤などの危険にさらされる現場でもあったが、労働者たちは粉塵にまみれながら、その奥に眠る「黒いダイヤ」を掘削した。幾春別炭鉱は最盛期、年間18万㌧の石炭を産出し、地上の発展と繁栄を約束した。
石炭は、それを運ぶ鉄道や港湾、さらには製鉄業など様々な産業の起点でもあった。空知の石炭、室蘭の製鉄、小樽の港湾などを緊密につながる一体のものとして、この立坑櫓を含めた産業遺産群が「炭鉄港」の名で日本遺産に認定されている。
立坑櫓という「地底の王国」の入り口に立って、自分たちはいま、近代からつながる歴史の時間軸のどの辺りを歩いているのかと、改めて思いを巡らせてみる。そして、どこへ行くのかと……。
樹林に響く鳥の囀りが、あたりの静けさを一段と深めているようである。