大友堀
〜大地に刻まれたランドマーク〜
   文 磯田憲一;写真 津村明彦

公開

 国土の22%を占める広大な大地が「北海道」と命名され、新政府による本格的な開拓がスタートしたのは明治2年(1869年)。以来、これほどのスピードで地域開発が進められたのは世界にも類例がないと言われる。
 今、この北の地は、大地の恵みにあふれ、豊穣の暮らしに充ちているが、明治の初期、この未開の地が「士族開拓」と称される人たちの血と汗で切り拓かれたものであることを知る人は、わが身も含めそう多くはないのではないか。北海道開拓と言えば、先ずは「屯田兵」を想い浮かべる。が、制度が本格化するのは、明治8年から9年にかけてのことになる。
 “開拓使”が設置された2年後の明治4年(1871年)、北海道開拓の先駆けとして、この地に初めてひとまとまりの集団として移住してきたのは、戊辰戦争に敗れた旧仙台藩の主従たち。朝敵・賊軍の謗り(そしり)を受け、計り知れない痛手も負いながら辿り着いた茫漠たる大地・・・。その荒涼・未知なる世界に立ち向かう日々は、飽食の時代の中にいる私たちには想像もし得ない艱難辛苦だったに違いない。たかだか150数年前のことである。
 その仙台藩岩出山支藩の苦渋の決断までを映像化した「幻の・・・」と言われた映画「大地の侍」(1956年・東映)は、先年DVDとして65年ぶりに甦ったが、開拓初期の知られざる侍たちの、農民として出立する姿を描いた映像は、今を生きる私たちに、改めてこの大地の価値を次代に引き継いでいくことの意味とその大切さを教えてくれる。

 その岩出山支藩主従の移住に先立つこと5年前、この大地に新たな歴史を刻んだ人物がいる。江戸幕府の命を受け、石狩原野の開拓に赴いた相模国(さがみのくに・神奈川県)出身の大友亀太郎。
 亀太郎は、1866年(慶応2年)4月、石狩に入り、フシコサッポロ川上流を開拓地と定め、用排水路や道路、橋などの建設に着手する。とりわけ亀太郎が思いを込めて掘削した用排水路は4キロに及ぶが、僅か4ヶ月の工期で掘り上げたという。「大友堀」と呼ばれるその水路をベースに、開拓使は周辺の河川改修を進め、1874年(明治7年)、その川を創成川と名付けることになる。
 開拓使に判官として赴任していた島義勇は、その「大友堀」を東西の基線とした上で、大友堀と垂直に交わる南1条を南北の基線としたが、その後、南1条通りと並行して設けられていた防火帯が大通りとされた。それ以降の150年にわたる札幌の街づくりを俯瞰する時、1866年(慶応2年)9月に完成した「大友堀」は、碁盤の目状と言われる札幌の都市基盤づくりのベースとなっただけでなく、市民にとっても、日常の生活行動の中で、己れの現在地を推し測る基点としての役割も果たしてきたと言える。北緯43度線上にあって世界的都市にまで発展した札幌、その都市づくりの在りようを方向づけたという意味で、「大友堀」は、まさに「百年の大計」を見据えた壮大な構築物だったと言って過言ではない。

大友亀太郎像

 高さを競うように林立する大都市東京の高層建築群。その狭間に身を置くと、その無機質な光景に疲れが昂じる。それは、立ち位置を指し示してくれることもなく、一人ひとりのか細い人間など蹴散らすかのように屹立するその威容があまりにも寒々として異様だからだ。

 人は、誰もが無意識の内に、たえず自らの立ち位置を推し測っているものだが、札幌の街並みをいつも見つめ続けている手稲や藻岩の山が、市民にとって揺るぎなくそこに在り続ける道しるべであるように、札幌中心部を南北に流れる創成川、東西に走る大通は、大地に刻まれた不動の存在と言える。十文字に交差した創成川と大通の存在を身体にしみ込ませてきた市民は、条・丁目を言われるだけでその位置と距離を瞬時に想像することができる。その関係性は、この街の秘める豊かさの一つと言っていい。
 茫漠たる荒野に佇みながら、遥かなる時を見据えていたに違いない大友亀太郎。その、創成川を生み大通を拓くこととなった「大友堀」は、大地に刻まれた揺るぎない「ランドマーク」として、150年を超えて今もなお、札幌の街と市民の暮らしを支え続けている。


磯 田 憲 一

1945年旭川市生まれ。67年に明治大学法学部卒業、北海道庁へ入庁。以後、一貫して北海道人の視点で、地域力を活かした取組みに関わる。政策室長、総合企画部長を経て副知事となり、2003年に退任。在職中は、北海道文化振興条例制定や、行政の無謬性神話を打破する「時のアセスメント」の発案、狂牛病問題対策本部長として日本の標準となった全頭検査と一次検査公表などを手がける。2006年からは、誕生した子どもに職人手作りの椅子を贈る「君の椅子」に取り組む。2015年、春の叙勲で瑞宝中綬章。同年9月、第37回サントリー地域文化賞。2022年、第73回北海道文化賞

写真
津村明彦

1962年北海道旭川市生まれ。
20数年間の営業写真館勤務を経て、現在フリーランスカメラマンとして婚礼写真を中心とした撮影に従事
併せて北海道の自然の中に美しく佇むポートレート作品の創作活動を行っている。
「ホテルニューオータニ札幌」写真室室長10年歴任、ロチェスター工科大学 デジタルイメージングセミナー修了。
江別市在住

大友亀太郎の測量

大友亀太郎の大友堀開削は、当時としては一大事業でしたが、その成功の一因として、建設に着手する前のしっかりとした基本測量が挙げられます。大友亀太郎は、伊能忠敬から測量技術を受け継いだ二宮尊徳の弟子だったので、大友堀の建設にも伊能忠敬の用いた測量方法と測量器具が活用されました。
それは、導線法みより角度と距離を測定し、交会法によりその誤差を修正するという方法で、具体的な作業手順は以下の通りでした。
(1)導線法:1)地形沿いの曲がり角などを測点に選び、杭を打ち、梵天(はんてん)と呼ばれる目印を設定
       2)鉄鎖(てっさ)で距離、彎窠羅針(わんからしん)で角度を測定
       3)地表の勾配を小象限儀で図り、距離を修正
       4)測点を移動させて前進
(2)交会法:1)各測点から共通して見える目標物(通常は高い山)を設定
       2)各測点から半円方位盤で目標物の方位角を測定し、距離の誤差を修正

(出典)国土地理院ホームページ