函館の街に仕事場を持って二十年近くになる。夏はほとんど、こちらで過ごすので、時間があると足を伸ばして道南をめぐる機会が増えた。特に、函館の街はコンパクトで、朝の陽気に誘われてから出かけても、思いのほか良いところにたどり着く。風光明媚なところはもうあらかた回った気でいたのだが、ある時東京の友人にこう言われた。
「赤川の方にある、ダムは行った? よかったよ」
彼女は東京で生まれ育ったが、息子さんが函館の寄宿舎のある学校へ入学したことで、この街に縁ができた。ご家族で息子さんを訪ねては、やはりあちらこちらと出かけて過ごす時間を持つようになっていたようだ。
ダムが、よかった、というのは正直驚きだった。
私はダムにあまり良いイメージを持っていなかった。貯水や治水のために作られたり、水力発電に用いられたりすることがあるのは知っているが、人間が自然に大規模に手を入れる必要悪なもの、という印象を持っていた。関心がないために、函館にダムがあるのも知らずにいた。
「どう、よかったの?」
訊いてみると、
「それがね、ダムの形状がなかなかなんだよね」
ますます不思議な答えだった。
そのまま忘れるところだったが、ある時、別の地元の人より、紅葉が見事な場所として笹流ダムの名があがった。「笹流」と書いて、ささがなれと読むのだ、とも。
「春は桜も素晴らしいですしね」
と、重ねて教えられた。
何かその時に、人々に愛されている場所なんだなという印象が伝わった。
それで訪ねてみたのが、私の場合は夏の時期だった。残念ながら紅葉でも桜でもない時期なのだが、下流の公園には少なからず人が出ていて、バーベキューのコーナーもあった。子どもたちのあげる声が空に、そして青く口を広げて佇むダム湖に、吸い込まれていくようだった。そして、見上げた先にあるダムの構造物が、意外なほどしっくりと、風景と調和し、建築美さえも感じさせた。
笹流ダムは、確かに私には初めて目にする建造物の形をしていた。友人が言っていた形状とは、まさにこのことなのだろう。コンクリートの升目が堂々と左右に広がり、ヨーロッパの古いホテルのガラスのない窓のようでもある。升目なので、壁ではなく、それがいきなり何かを断絶する境界に見えていない、というのが風景と調和して見えた理由だったかもしれない。
この形状は、バットレスダムと呼ぶそうで、日本では現在6基しか存在していない貴重な構造。6基の中でも最も古いのが、この笹流ダムとなり、日本本土初として1923年に1基目が、49年、84年と改修されながらもバットレスの構造は維持され存在してきた。
設計の小野基樹さんは、土木人名辞典によると、函館市出身。京都帝国大学で土木工学を学び、宮内庁の嘱託となり、京都御所の防火水道の建設にも関わった。大正、昭和期の土木事業家として日本の水道事業に携わり、太平洋戦争を経て、後に日本ダム協会の会長も務められている。
笹流ダムは、小野氏が30代後半で設計と工事の指揮を担当した。油の乗った人物に、郷里函館は大切なダム建設を託した。
小野氏は、当時すでに多くの地で使われていた重力式コンクリートダムではなく、このバットレスの採用に踏み切った。
バットレスとは「扶壁」で、バットレスダムとは扶壁式中空鉄筋コンクリートダムと訳されるようだ。止水壁が水圧を受けるのを、鉄筋コンクリートの扶壁をめぐらせて支えていく方式。笹流では、薄い鉄筋コンクリート版を二三基の三角形の扶壁と六本の横桁で支える設計をした。この記述も土木人名辞典に書かれていたことで、恐縮だが私には工法自体が理解できているとは言い難い。
ただしこれにより、当時は高価だったコンクリートを節約し、工期も短縮できたのは想像がつく。扶壁はダムだけではなく、ヨーロッパではウエストミンスター寺院などで存在し、価格と工期を抑えながら強度を上げる、かつては有効な方法だったようだ。
現在はコンクリートが広く流通し、この方式が新しく作られる機会はほぼなくなったとされる。現存するバットレスダムは遺産であり、同じ方式のダムはすべて土木学会選奨土木遺産に認定されている。群馬県で東京電力が管理する丸沼ダムが重要文化財に、岡山県で中国電力が管理する恩原ダムは、登録有形文化財ともなっている。
いずれも写真で見たが、私は今や、俄然笹流ダム贔屓。何より、風格がある。
堤高は25.3メートル、堤体中央部は130.9メートル、左岸に30.91,右岸には37.58メートル、それぞれ動力式の堤が翼のように広がる。
ダムには時に悲しい歴史がある。ダムの決壊による水の事故は、日本各所で辛い爪痕を残してきた。ダム建設のために村の住民が他所へ移ることを選択し、または余儀なくされてきた歴史もある。住民が反対し闘争が起きた土地もある。
そうしてできたダムが豊かに水を湛えて、我々はその恩恵にあずかっているのだが、そこに沈んだ村を感じながら、ダム湖を愛でる気持ちには、なかなかなれない。
そんな中で、笹流ダムには始まりからうまい折り合いがあった。遡れば函館は開港都市であり、急激に人口が増え、水の需要も一気に増した。函館市中を流れる二級河川に亀田川という川があり、市民にはなじみ深い川だ。今では橋の欄干にイカのマークが刻まれているのも楽しい。この川の水系赤川地区に笹流川があり、函館市は水道専用の水瓶としてこのダムを建設した。
2001年に、国内のダムとしてははじめて土木遺産に認定、この際は元町排水場とともに、「水道施設群」のうちのダムとして選ばれている。
函館、横浜と開港した街から順に水槽施設は整えられていったようだ。
ダムの建設には、元来、人間が巨大な水の存在を引き寄せるために、挑んでいくかのような、ダイナミックな精神性が投影されているが、笹流ダムは、街の規模にもあった優しいダムに見える。
私も友人たちからバトンを受けて、皆様に、足を運んでみてはとお勧めしたい。
<笹流ダムの歴史>
1923年(大正12年) 完成
1984年度(昭和59年度) 改修工事を完了
1985年(昭和60年) 近代水道百選
2001年度(平成13年度) 土木学会選奨土木遺産認定
2005年(平成17年) ダム湖百選
2008年度(平成20年度) 近代化産業遺産群
<交通アクセス>
【函館バス】 函館駅前から55系統 「赤川小学校」下車 徒歩約10分
【タクシー・車】 函館駅前から約30分(無料駐車場有)
谷村 志穂 (たにむら しほ)
作 家
<略歴>
1962 年 10 月 29 日北海道札幌市生まれ。
北海道大学農学部にて応用動物学を専攻し、修了。
1990 年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』(角川文庫)がベストセラーとなる。
1991 年に処女小説『アクアリウムの鯨』(八曜社/角川文庫)を刊行し、自然、旅、性などの題材をモチーフに数々の長編・短編小説を執筆。 紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。
2003 年南北海道を舞台に描いた『海猫』(新潮社)が第 10 回島清恋愛文学賞を受賞。
現在、北海道観光大使・函館観光大使・七飯町観光大使を務める。
代表作に『黒髪』(講談社)、『余命』(新潮社)、『尋ね人』(新潮社)、『移植医たち』(新潮社) など。
道南を舞台に他にも『大沼ワルツ』(小学館)、『セバット・ソング』(潮出版)などがある。
最新作は『過怠』(光文社)。
作家としての活動の傍ら豊富な取材実績を活かして旅番組などの出演も多数。
佐々木育弥(ささき いくや)IKUYA SASAKI
写真家
<略歴>
北海道上士幌町生まれ。東海大学芸術工学部くらしデザイン学科卒業。曽祖母の死をきっかけに写真を通してできる「人とのつながり」に心を打たれ、独学で写真活動を開始。自身のプロジェクトとして「障害のあるアスリート写真展」を企画・発表。広告・雑誌など幅広く手がけ、無印良品・SUBARU・NEC・新建築社・LIXIL・CCCメディアハウス(PEN・フィガロ・単行本)・マガジンハウス・美術手帖・AIR DOなど実績多数。北海道文化財団「君の椅子プロジェクト」から生まれた書籍『「君の椅子」ものがたり』や「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄 30周年記念カレンダー」、現在大規模改修工事中の北海道庁赤れんが庁舎実物大写真シートの撮影など、北海道の魅力を発信する仕事にも力を入れている。
HP / Instgram
バットレスダムの歴史
バットレスダムは、1918年(大正7年)に当時日本領だった南樺太で手井ダムが造られましたが、本土での第1号が笹流ダムでした。
当時、大規模ダムは重力式コンクリートダムが主流になりつつありましたが、セメントが高価だったのでセメント量を節約して、工事コストを削減できる新しいダム方式としてバットレスダムが注目され、次々と建設されました。*
しかし、1937年(昭和12年)に完成した三滝ダム(鳥取県)以後は建設されなくなり、それは以下の理由からと考えられています。
① コンクリートが安価になり大量に使用できるようになった。
② ダムを支える扶壁(バットレス)の形状が複雑で、施工が複雑となり相対的に工費が上昇した。
③ 扶壁の型枠設計や完成後のメンテナンスのコストを含めると長期的には費用対効果が劣る。
④ 耐震性に難点がある。
⑤ 凍害により耐久性が低下することが判明した。
*日本では8つのバットレスダムが建設され、現存するのは笹流ダム、三滝ダム、丸沼ダム(群馬県)、恩原ダム(岡山県)、真立ダム(富山県)、真川ダム(富山県)の6ダムです。