この鉄橋を、自分は何度渡ってきただろう。江別市の中心部の北側、夕張川に架かる函館本線の鉄道橋である。
札幌から旭川へ、滝川へ、そしてその帰路と、JRは様々な機会に数えきれないほど利用した。だが、この鉄橋を渡っていることさえ意識することはなく、むろん、架橋に関わった群像や今に至る歴史を思うこともなかった。
その新夕張川鉄道橋を、河川敷におりて間近に見上げる。完成から86年。コンクリートの橋脚は老朽化も進んでいるが、その存在感は逞しく、往来する列車と人々の暮らしを支えている。
着工は1935(昭和10)年。工事の中心となったのが、このサイトを運営する草野作工株式会社の創業者、草野真治である。幼いころから鳶職人として札幌の森合組で腕を磨いた真治は22歳で森合組の江別出張所長に抜擢され、旧豊平橋(札幌)や旭橋(旭川市)を手掛けて「橋づくりの名手」といわれるようになっていたという。
だが、この夕張川での架橋の事情は大きく違った。
夕張川はもともと、現在より南側を蛇行して流れ、洪水を繰り返していた。その氾濫を鎮めるために流路を変えて石狩川へとつなぐ新水路が造られた。そこに新たな鉄橋の建設が必要になったのである。
橋は、いうまでもなく土台が生命線だ。真治は当初、筒形のケーソンを置いて中の底部を掘り進め、コンクリートを流し込んで土台をつくる方式を試みた。だが、一帯はひどく軟弱な泥炭地。大雨が降るとケーソンが流される事態が頻発する。工事が進まない苦境の中で、森合組の社長が急逝し、会社が倒産するという危機に立ち至った。
ここで真治は草野組(草野作工の前身)を立ち上げ、亡き社長の遺志を継いで事業を推し進める決断をする。
難局打開のために真治が採用したのがニューマチックケーソンという新工法だった。ケーソン底部の作業空間に圧縮空気を送り込んで地下水の流入を防ぎ、土台を作り上げる工法。道内では初めてのことで、東京から専門の業者を呼び寄せて鉄道橋を完成へと導いた。
後になって振り返れば、「あの出来事が命運を分けた」と思えることが、人の歩みにも会社の歴史にもあるものだが、草野作工にとっては、この新夕張川鉄道橋への挑戦が会社の分水嶺となった。
真治が手掛けた数々の名橋に比べれば、この鉄道橋は、あるいは「無名橋」と言えるのかもしれない。だが、そこに注ぎ込まれた人々の物語をたどれば、「無名」のなかに息づくものの重みに気付かされる。
<交通アクセス>
【車】JR江別駅、豊幌駅から約4㎞
国道12号 江別大橋横
文・写真
秋野禎木
(あきの・ただき)
元朝日新聞記者/現北海道大学野球部監督
1959年生まれ、北海道小平町出身
【ケーソン工法】
ケーソン(英語:caisson) 工法は、水中や軟弱地盤に大きな構造物を作る際に、鉄筋コンクリートや鋼製の筒や箱状の構造物を作り、地中に埋めて基礎とする工法です。
防波堤などの水中構造物として用いられるケーソンは、地上で製作したケーソンを水上に浮かせて曳航し、注水などによって所定の水底地盤に沈埋します。
一方、橋梁や建築物の基礎になる陸上工事でのケーソンの工法には、大きく次の2種類があります。
⓵ オープンケーソン工法
地上で製作したケーソンを工事個所に設置し、ケーソンの中空になった内部から人力あるいは機械で地盤を掘り下げ、徐々にケーソンを支持層まで沈下させて基礎構造物とする工法。
⓶ ニューマチックケーソン工法(潜函工法)
ケーソンの下部に隔壁を設けて気密作業室を作り、その中に圧縮空気を送り込んで気圧の高い状態にすることで地下水の流入を防ぎ、掘削作業を行う工法。高気圧の特殊な環境での作業となり、作業員がケーソン病と呼ばれる病気になることがあることから、加圧・減圧設備により調整など、労働安全管理には特別な配慮が必要になります。