釧路市に住んでいたのは、もう40年も前になる。大学を卒業し、入社した新聞社の初任地がこの「霧の街」だった。
支局から警察署へ、市役所へ。毎日のように車で幣舞橋を通る日々が始まった。慣れない仕事に戸惑いながら、現場に走り、原稿を書いては書き直すばかりの駆け出しの記者には、街のシンボルである有名な橋をゆっくり眺める余裕など、あるはずもなかった。
その橋を初めて歩いたのは、赴任から数カ月が過ぎた夏だったと思う。会社の先輩と繁華街で飲んだあと、珍しく歩いて支局へと向かった。
濃霧の夜だった。橋に差し掛かって、その先がほとんど見えないことに驚いた。濃霧とはいえ、これほど視界が奪われる霧は、それまで経験したことがなかった。街灯の光も頼りなく、車道を走り去る車のテールライトもたちまち滲んで、すぐに霧の中に消えてゆく。
ふと、橋の支柱にブロンズ像が立っていることに気付いた。突然のように、霧の中から現れた裸婦の像。両腕を挙げ、闇の中で何かに耐えるような、何かを訴えているような姿。淡い街灯の光に照らされた幻想的な像に、しばしの間、見入っていた記憶がある。
彫刻のある橋――幣舞橋は、私の中ではそんな橋として胸に刻まれることになった。
釧路川の河口に近いこの場所に最初に橋が架けられたのは1889(明治22)年。民間の会社が造った「愛北橋」という木橋で、長さ216㍍、幅3・6㍍。当時は道内で最大の橋だったが9年で倒壊し、新たに建設されたのが初代の幣舞橋である。この一帯の地区名が名前の由来だという。
だが、これも9年という短命で崩れ、その年のうちに完成した2代目も簡易トラフという木組みの構造だったためか、さらに短い6年の利用にとどまった。3代目は1915(大正4)年に完成したが、これまた短命で役割を終えてしまう。
これに代わる4代目は、道内で最初に鉄筋コンクリートが使われた橋で、1928(昭和3)年に完成する。ヨーロッパ風のデザインを採り入れた優美な姿が北海道の3大名橋(他は札幌の豊平橋と旭川の旭橋)と讃えられるものだった。
その橋も半世紀近くが過ぎると老朽化や周囲の渋滞解消などへの対応が必要になり、5代目への架け替えの議論が始まる。
工事を担う釧路開発建設部から意見を求められた釧路市は市民検討会を開き、中高生を含めて広く意見を募った。市民が愛着を持つ4代目の姿を出来るだけ残してほしいという意見に加え、「橋に彫刻を」という要望が出された。市民の暮らしを支える橋に芸術性を持たせたいというものだった。
開発建設部がこの要望を受け入れ、新たに市民懇談会が発足、検討が重ねられ、「道東の四季」をテーマに、「春・夏・秋・冬」をそれぞれ舟越保武、佐藤忠良、柳原義達、本郷新の日本を代表する4氏が担当することになる。その費用として集まった寄付は約5千万円に上った。
5代目となる現在の幣舞橋の架橋は1976(昭和51)年。全長124㍍、幅34㍍で、翌年には4体のブロンズ像の除幕式も行われる。芸術性を纏った新たな橋は、しばしば映画のロケ地になり、鮮やかな夕景は「世界三大夕日」とも言われる有数の観光スポットになった。
暮らしを支える橋造りの「技術」、市民の声で実現した彫刻という「芸術」、そして夕陽や霧といった「自然」、それらの融合が、今この時も幣舞橋の表情を鮮やかに彩っている。
<交通アクセス>
JR根室本線釧路駅より北大通経由徒歩10分
文・写真
秋野禎木(あきの・ただき)
元朝日新聞記者/現北海道大学野球部監督
1959年生まれ、北海道小平町出身