無意根大橋
~自然と調和した壮大な定山渓国道
 文 合田一道 写真 佐々木育弥

公開

 札幌市南区の定山渓温泉から中山峠に至る定山渓国道(国道230号)は、自然環境や地形と調和した全国屈指の国道とされる。実際に車で走ってみると、地形に沿って楕円形に曲がって延びるコースは、まるで動画の世界にいるようで、思わず息を呑む。
 この大胆なまでの構造設計は、誰が手がけ、どのような経過で完成に導いたのか。その経緯を辿るには、北海道開拓の初期にまで遡らなければならない。
 明治維新により北海道開拓が始まったのは、箱館戦争が終焉した直後の明治2(1869)年5月。もっとも重要視されたのが未開地を切り開く道路の建設で、ことに開拓使の拠点とを結ぶ定山渓道路(有珠―札幌間)は、札幌本道(室蘭―札幌間)と並んで一日も早く実現させねばならない大動脈だった。だが途中に急峻な中山峠があり、断崖渓谷が連なり、開削できるかどうか見通しもたたなかった。
 この難事業に名乗りを上げたのが東本願寺門跡の第21世、大谷厳如(ごんにょ)である。なぜ高僧が無謀とも言える仕事に自ら申し出たのか。実は東本願寺は徳川家と姻戚関係にあり、天皇政権が誕生し将軍慶喜が逆族とされたいま、汚名を着せられ取り潰される恐れもあった。厳如は、決して天朝に背くものではないとして、政府の推進する事業をわが宗門に命じてほしいと願い出たのだ。
 ほどなく「蝦夷地開拓」の沙汰が下り、厳如は、後継者である若き現如(げんにょ;光瑩)を蝦夷地に送り込み、未開地を開拓しながら布教もする方針を伝えた。
 明治2(1869)年5月、箱館戦争が終結し、新政権は蝦夷地を北海道と改め、開拓使を設置し、石狩(札幌)大府を置いた。ここで札幌に至る道路の建設が最重要課題として浮かび上がった。
 明けて明治3(1870)年2月、19歳の現如は僧侶や信徒ら総勢百人に護られて、京都を出立。5カ月間もかけて青森に到着し、ここから2隻の船に分乗して北海道へ。
 新道建設工事は伊達紋別の尾去別側から始まった。長流川(おさるがわ)沿いに生い茂る原始林を切り開き、幅九尺(約2.7m)の道路をつけていく。川や谷にぶつかったら木板を渡して橋にする。同行の僧や信者にはまったく不慣れな作業だったが、懸命に働いた。だが労働者が足りず、笹刈りは日給一分、伐木、架橋は割増し手当を出すとして人を集めた。日銭が貰えるというので、札幌付近に住む流れ者たちだけでなく、伊達に入植した仙台藩亘理領の士族、近くに住むアイヌの人たちも加わり、作業が続けられた。
 翌明治4(1871)年10月、有珠新道工事は難渋の末、着工から僅か1年余りで完成した。延長二十六里十町五間(約103km)。総工費一万八千五十七両六十二文五分と記録に残る。現在の金額で2億円くらい。国道230号の原型である。
 時が流れて明治27(1894)年、道路は往来が激しくなり、中山峠に駅逓が設置された。昭和も戦後の昭和32(1957)年、北海道開発局は中山峠―札幌間45kmを含む大がかりな改修工事に乗り出した。このうち中山峠―定山渓間は支笏洞爺国立公園の大国有林地帯を横断していること、地質が悪く急峻で狭隘なこと、さらには豊平峡ダム(1972年完成)の建設位置と重なるなど、課題を突きつけられる形となった。

 だが平均年齢26歳の若い技術者たちは、これに真正面から立ち向かっていく。冬期間の安全通行を目指し、地質上の課題を構造技術で克服して、国立公園内にふさわしい道路の実現に向かった。まず中山峠―定山渓間の全線を調査したうえ、航空測量を実施し、総合的に検討して道路の線形を決めた。この線形こそ、地形を巧みに利用して大動脈を建設するというかつてない壮大なものだった。若い技術者らが師と仰ぐ高橋敏五郎(元札幌開発建設部長)の「道路は公園と同じ。心が和むものに」という言葉に応えようとしたものだ。

 昭和39(1964)年に着工したが、もっとも難関だったのが無意根大橋の建設。専門用語で「5径間連続曲線鋼箱桁型橋梁」と呼ばれる。前後の線形、地形の関係で、線形R140㍍、高橋脚約30㍍。温度変化や地震の影響を受け流す考えから、橋脚は6点ピンの鋼管とし、橋梁の両端には橋台を設置せず、定山渓側は単独の擁壁、薄別回廊に接する側は回廊からの張り出しで受ける。これにより高架橋梁が伸びやかに弧を描き、周囲の自然環境と融合して映えた。

 薄別回廊に続く、仙境覆道、薄別トンネルも相次いで建設された。技術の粋が結集した5年間に及ぶ大工事は、昭和44(1969)年、ついに完成した。道路延長17.4㎞、幅員6.5m。橋脚は12橋(総延長978m)。トンネル2か所(総延長1,282m)、覆道1か所(延長116m)、回廊1か所(延長147m)。完成の日、技術者たちは感動の涙を流したと伝えられる。
 ここで道路を設計した人の名が大谷光信氏と知り、はっ、となった。明治初期に宗門を率いた若き大谷現如(光瑩)とよく似た名前に、なぜか不思議な感慨を抱いた。
 中山峠に「本願寺街道」の標柱が見え、そのそばに現如像が立っている。像の前を車が飛ぶように流れていく。それがまるで、峠を行く人々を時空を超えて見守っているように思えて、しばし瞑目した。

合田一道(ごうだいちどう)

ノンフィクション作家
1934年、北海道空知郡上砂川町出身。佛教大学卒。
北海道新聞記者として道内各地に勤務。在職中からノンフィクション作品を発表。
主な作品は、『日本史の現場検証』(扶桑社)、『日本人の遺書』(藤原書店)、『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)、『松浦武四郎北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)など多数。札幌市在住。

佐々木育弥(ささき いくや)IKUYA SASAKI

写真家
北海道上士幌町生まれ。東海大学芸術工学部くらしデザイン学科卒業。曽祖母の死をきっかけに写真を通してできる「人とのつながり」に心を打たれ、独学で写真活動を開始。自身のプロジェクトとして「障害のあるアスリート写真展」を企画・発表。広告・雑誌など幅広く手がけ、無印良品・SUBARU・NEC・新建築社・LIXIL・CCCメディアハウス(PEN・フィガロ・単行本)・マガジンハウス・美術手帖・AIR DOなど実績多数。北海道文化財団「君の椅子プロジェクト」から生まれた書籍『「君の椅子」ものがたり』や「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄 30周年記念カレンダー」、現在大規模改修工事中の北海道庁赤れんが庁舎実物大写真シートの撮影など、北海道の魅力を発信する仕事にも力を入れている。
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