大寒が近づく1月中旬、稚内港を歩いた。最北の地の冬は暴風雪との闘いの日々だが、この日は柔らかな日差しが降り注ぎ、宗谷海峡の波も穏やかだった。それでも冬の海の色は深い。時折、波の音が聞こえる。
静寂の埠頭に立って、70本の円柱が一直線に並び、427㍍の庇を支える「北防波堤ドーム」を見渡す。
古代ローマの神殿を思わせるこの建造物は、かつて、対岸の樺太(サハリン)に向かう人々を送り出し、やがて旧ソ連軍の侵攻に追われた人々を迎え入れることになった、歴史の時が刻み込まれた国境の柱廊だ。
視程が良ければ島影が見える樺太は、江戸時代からロシアとせめぎ合う地であった。
19世紀に入って顕著になったロシアの南下策に危機感を持った幕府は1855(安政2)年、日露和親条約を結び、千島列島に国境を定める。一方で、樺太は国境を決めずに両国民と先住民の混住地としたため、その後も日露双方がしばしば衝突する緊張状態が続いた。
20年後、明治政府は樺太の領有権を放棄する樺太千島交換条約を締結、宗谷海峡が国境となったが、1905(明治38)年、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約によって、南樺太が日本領となった。稚内は「最果て」から一転、資源豊かな北の島へと向かう拠点となり、やがて大泊(コルサコフ)とを結ぶ連絡船の「稚泊航路」も開設される。これが1923(大正12)年、ちょうど100年前である。
当時、稚内港は整備途上で、連絡船には桟橋から小型船で乗り移らなければならなかった。岸壁が完成してからも、特に冬場は荒々しい激浪が5・5㍍の防波堤を易々と越え、人々は危険に晒されていた。
その打開策として、稚内築港事務所長を務めていた平尾俊雄が防波堤に「天蓋」を設けることを発案する。平尾は部下の技師、土谷実にフリーハンドスケッチでドーム型の庇を示し、設計を指示した。
土谷はこの時、26歳。大学卒業からまだ3年で経験が浅く、他に類例のない庇付きの防波堤の設計を任され、途方に暮れるばかりだった。
だが、大学時代の研鑚の記憶がまだ鮮やかだった若者であることが幸いしたのか、土谷は北大の講義で強く印象に残っていた古代ギリシア・ローマ建築を参考にすることを思い付く。その閃きを設計に落とし込むという、無謀とも思える行為は、ベテランならば「夢想」のまま自らの内側に閉じ込めるものだったかもしれない。後に、土谷自身も「怖いもの知らずだった」と語っていたという。
それでも、この自由奔放なアイデアを平尾も認め、1931(昭和6)年春に建設が始まる。当時の技術でドーム型のコンクリート構造物を造るのは困難を極めたが、型枠を工夫するなど様々な試行錯誤を重ね、5年をかけて「防波堤ドーム」は完成をみる。
そのドーム内には鉄路が延伸されて稚内桟橋駅も開業、乗客はそのまま連絡船に乗り継ぐことができるようになった。冬は流氷に覆われるため、就航していた船舶は砕氷船。そのタラップを上がり、酷寒の樺太へと渡ろうとする人々に、風雪を遮るこの施設はどれほど安らぎを与えたことだろう。
しかし、そうした日々は敗戦とともに途絶する。旧ソ連軍の樺太への侵攻。戦火に追われ、引き揚げを余儀なくされ、辛うじて連絡船に乗ることができた人々が、宗谷海峡を越えてこのドームを目にしたときの安堵はいかばかりのものだったか。稚泊航路は開設から22年で幕を閉じ、ドームは完成から10年を経ずして一つの役割を終えることになる。
戦後、利尻・礼文航路の発着点として、また、石炭貯炭場や資材置き場として使われたが、次第に老朽化が進み、解体案も持ち上がった。だが、稚内の歴史が刻まれた「記念碑」の存続を望む声が強く、1978(昭和53)年から2年をかけて全面改修され、現在の姿になった。
時代の激浪に洗われながら、「北海道遺産」や「選奨土木遺産」などとして様々な光も浴びる最北の柱廊。若き技師たちが遺したドームの静寂の中に佇めば、かつてこの場所を踏みしめていた人々の苦悩や希望、不安や安堵が立ち上ってくるようだった。
<交通アクセス>
【JR】JR稚内駅から約300m
文・写真
秋野禎木
(あきの・ただき)
元朝日新聞記者/現北海道大学野球部監督
1959年生まれ、北海道小平町出身