小樽運河
~二度にわたる「運河戦争」の果てに
 文・蜂谷 涼 写真・工藤裕之

公開

 小樽運河は、大正12(1923)年12月に竣工した。ちょうど100年前のことだ。まずは、そこに至るまでの歴史を振り返ってみよう。
 明治2(1869)年、北海道開拓使は札幌本府の外港となる小樽を重要視し、出入りする船をあらためて税金を課すための「海官所」を設けた。それまで鰊(にしん)の漁場であった小樽の港は、商業港への第一歩を踏み出したのだ。
 北海道開拓使では、原野を開拓して耕作地を拡大するのはもちろん、味噌や醬油、ビールや葡萄酒の官営醸造所や、鮭・ます牡蠣かき、鹿肉などの缶詰や製粉、製紙、製革、漁網など製網の官営工場の建設や、官営の牧場や鉱山を開く計画を立てていた。未開地の移民に生活物資を提供するとともに、農作物を買い上げ、加工し、流通させ、ゆくゆくは海外に輸出することも目的であった。つまり、農業が工業に化け、商業へと進展する近代化産業の実践も、開拓使の任務だったといえるだろう。そこで必要不可欠なのが、輸送基地である。
 北海道の輸送基地として、小樽港の役割が飛躍的に大きくなるのは、明治15(1882)年に手宮・幌内間の鉄道が全通してからだ。幌内炭鉱の石炭をはじめ、内陸部各地で収穫された農作物が次々と運ばれ、小樽港から全国に出荷されていった。出入港数が年々増加していくのに伴って港湾整備が喫緊の要事となり、明治30(1897)年に大規模国営事業の防波堤建設工事が始まった。明治32(1899)年には国際貿易港に指定され、「札幌などは重要な商業地とはいえ、とどのつまりは内地のおこぼれにあずかる一小売市場に過ぎない」とか「小樽が第二の大阪となる日は近い」などと、鼻息が荒い文言が新聞各紙を飾った。
 しかし、防波堤建設工事と同時に立案されたにもかかわらず、港湾修築工事は、『埠頭方式』にするか、『運河方式』にするかを巡って延々と激しい論争が交わされ続けていた。

 北防波堤が威容を現しつつあった明治39(1906)年11月に日露戦争での勝利を受けて南樺太が日本の領土となると、小樽港は樺太への輸出基地として繁忙を極めた。さらに、大正3(1914)年7月に始まった第一次世界大戦によってヨーロッパにおける雑穀の主要産地であるルーマニア、ハンガリー、オランダが戦場と化してしまったために、全道の豆類や雑穀の集積地となっていた小樽港から、それらを満載した船がヨーロッパ各地に向けて続々と出航するようになる。
 第一次世界大戦が勃発した1ヵ月後、ついに小樽運河は着工をみた。「平地が少ない小樽では港付近にも土地が乏しいゆえ、海面を埋め立てて倉庫用地とし、貨物船は沖合に停泊させて、水路を航行するはしけで倉庫へ荷の出し入れを行うのが効率的」と主張する『運河方式派』が、勝利したのだった。そうして、国内唯一となる埋め立て方式の運河が全区間完成するまでには、北防波堤の竣工から25年、南・島防波堤の竣工から2年待たねばならず、立案から着工まで20年近くを費やした論争は、後年「第一次運河戦争」と呼ばれることになった。
 昭和初期まで小樽は商都として発展を遂げ、第二次世界大戦後の経済回復も比較的順調に進んだ。だが、昭和40(1965)年代を迎える頃から、モータリゼーションの台頭と石炭産業の衰退が暗い影となって、ひたひたと忍び寄る。市内各地で交通渋滞が深刻化し、港湾貨物の約80%を占めていた石炭は急激に減少して、昭和45(1970)年には取り扱いが終了した。かつて水面を埋め尽くすばかりに艀が行き交っていた運河は、朽ちかけた艀の墓場と化し、悪臭を放つまでになっていった。そこで浮上したのが、運河を埋め立てて道道臨港線を建設する計画だ。

 当初、この計画は公にされていなかった。そのため、明るみに出た途端に市内が騒然となった。「無用の長物の運河などさっさと潰して、経済の再生を図るべき」と力説する行政側の『埋め立て派』と「小樽の歴史を象徴する運河を何としてでも残さなければ」と叫ぶ『保存派』が真っ向から対立し、市民を二分した。「第二次運河戦争」の勃発だ。保存派は『小樽運河を守る会』を結成、定期的に運河の清掃を行う一方で埋め立てに反対する10万人の署名を集めたり、国会議員に陳情したり、「ポートフェスティバル」を開催するなど、涙ぐましいほど熱心な活動を展開した。まだ「文化遺産」や「歴史的建造物」という概念は一般的ではなく、市民運動そのものが珍しかった時代に、『小樽運河を守る会』のメンバーは、手弁当で命がけに近い戦いを続けたのだ。
「第二次運河戦争」は、およそ10年におよび、南側の運河の幅40mを20mとする部分埋め立て工事が決定した。行政側が譲歩したかたちだが、全面保存を訴えてきた人々にとっては、完全なる敗北だ。昭和58(1983)年11月12日、埋め立てに向けた杭打ち作業が開始された際には、運河周辺に悲鳴と怒号が響き渡った。

 昭和61(1986)年5月8日には、道道臨港線と石畳による運河沿いの散策路の工事が完了し、開通式が華やかに執り行われた。これを機に、小樽は観光都市へと変貌をとげていく。整備された運河と水辺に立つ倉庫群は、ノスタルジックな風景として人気を呼び、ドラマやテレビCMなどの映像作品にも数多く使われた。国内からの観光客はもとより、インバウンドも年を追うごとに増加し、平成20(2008)年頃以降の運河一帯では、日本語よりも外国語のほうを多く耳にするようになった。
 令和2(2020)年初頭から広がった新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、小樽にも大打撃を与え、運河のあたりは見る影もなく閑散として、海鳥の声がむなしく尾を引くばかりだった。3年あまりにわたるコロナ禍を経て、近頃ようやく小樽運河は賑わいを取り戻しつつある。以前のように、運河クルーズ船乗り場に行列ができる光景も見られるようになった。

 市民の中には「昔日の面影を残すのは北運河だけで、散策路を持つ南側の運河は張りぼての観光資源だ」と眉をひそめる人もいる。が、南北どちらも、まぎれもなく小樽運河なのだ。ひっそりと横たわる北運河はゆかしいし、ガス灯の明かりがにじむ南側の運河も美しい。
 一口に観光資源と呼ぶけれど、資源というものは、大切に守り育てていかなければ、やがて枯渇する。100年後の小樽運河がどのような姿になるのかは、今を生きる私たちにかかっているのではないだろうか。

蜂谷 涼(はちや りょう)  作家

小樽市生まれ。
北海道を拠点に執筆・講演活動を行うかたわら、「作家と編集者の札幌小説教室」にて講師を務めるほか、ラジオのレギュラーコメンテータ―や小樽ふれあい観光大使も務める。
2008年『てけれっつのぱ』が劇団文化座により舞台化され、同舞台は2008年度文化庁芸術祭賞の大賞を受賞。
主な著書に、小樽港防波堤建設工事を背景に描く『海明け』(講談社)、北海道の酪農の父エドウィン・ダンと日本人妻をモデルにした『曙に咲く』(柏艪舎)、『舞灯籠』『修羅ゆく舟』(新潮社)、『へび女房』『夢の浮橋』(文藝春秋)などがある。

工藤裕之  写真家

1968生まれ。さいたま市在住。1990年自費出版にて北海道の写真集『眩光の瞬間』を出版し写真展を開催。1992年、明治大学商学部卒業後、写真家としての活動を始める。
雑誌/会員誌/WEB等にて撮影・執筆を行いながら、 1985年より道北を、2017年より埼玉県「武蔵一宮 氷川神社」を撮り続け、作品を発表し続けている。
"日本の魅力、再発見”がテーマの雑誌「Discover Japan」に創刊時から携わり、日本文化に関わる取材撮影を数多く担当する。 写真集に『時∞空』『追憶の鉄路』がある。日本写真家協会会員。稚内市歴史・まち研究会会員。株式会社 PHOTO MIO JAPAN 代表。