あれは5歳か6歳のころだったと思う。
その日、私は父に連れられて訪ねた旭川市から小平町へと帰る汽車に乗っていた。少し窓を開けて手を出していた私に、父が「窓を閉めなさい」と促した。トンネルが近づいていた。「煙が入ったら大変だ」と。
窓を閉めて間もなく、汽車はトンネルに入った。窓ガラスに顔をくっつけていた私は、息をのんだ。轟音とともに「明」から「暗」へと瞬時に反転し、猛スピードなのに濡れて黒光りした壁の残像が目に焼き付く。さほど長いトンネルではなかったはずだが、体を強ばらせた私には、闇の疾駆が随分と長く感じられたものだった。
旧上川線(函館本線)の神居古潭トンネルを訪ね、暗がりのヒンヤリとした空気に触れるうちに、記憶の中の一番遠いトンネル体験が蘇った。この場所でも、私と同じように息をのんだ少年がいたのかもしれない。
石狩川の右岸の峡谷を穿つこのトンネルが完成したのは1897(明治30)年。石炭輸送を主目的に空知太(滝川)まで敷設されていた鉄路を旭川まで延伸する上川線の工事の中で最難関とされたのが、この一帯のトンネル建設だった。
指揮を執った一人が30代の工学博士、田辺朔郎である。田辺は、琵琶湖の水を京都へと導き、古都の水事情を一変する「琵琶湖疎水」を実現させた人物として知られる。その手腕に絶大な信頼を寄せる北海道庁長官の北垣国道が、若き技術者に北海道開発の基礎となる鉄道敷設の推進を託したのだった。
東京帝国大学教授の椅子を擲(なげう)って北海道にやってきた田辺は、鉄道敷設に向けて各地を踏査しながら、道北を道央とつなぎ、内陸部発展の起点ともなる上川線の建設を進めた。
神居古潭の一帯は蛇紋岩質で、空気に触れると膨張したり崩れたりする特性がある。トンネルを掘り進めて岩盤を支える鳥居のような形の支保工を組んでも、岩の膨張で割れてしまうほどだったという。「肌落ち」といわれる危険な現象と闘いながら内部に煉瓦を組んでいくという困難を極める工事。田辺にとっても、その能力を発揮した記念碑的な事業だという。
上川線は開通後も路線の改良が続き、昭和初期に春志内トンネルなども完成、峡谷の鉄路は札幌と旭川を結ぶ重要幹線として物流を支えた。昭和40年代に函館本線が電化され、路線が切り替わったことで廃線となった後はサイクリングロードとして今に至っている。
補強のためにコンクリートで巻き立てられたが、往時の姿をとどめるトンネルは、田辺らが力強く生きた明治中期の北海道へと誘い、120余年の日々の連なりの末に「現在」があることを改めて教えてくれるタイムトンネルにも思えてくる。
<交通アクセス>
【バス】JR函館本線 神居古潭駅下車、徒歩3分
文・写真
秋野禎木(あきの・ただき)
元朝日新聞記者/現北海道大学野球部監督
1959年生まれ、北海道小平町出身
トンネルの種類
トンネルの種類は、用途別では交通用(道路、鉄道、地下鉄)、水路用(灌漑、水力発電)、鉱山、都市施設(共同溝、地下街、地下駐車場)など、様々な用途にわたります。
また、場所や工法で分類すると、山岳トンネル(山岳工法)、シールドトンネル(シールド工法)、都市トンネル、開削トンネル(開削工法)、沈埋トンネル(沈埋工法)に分けられます。
<矢板工法の施工手順>
木製または鋼製の矢板を土中にアーチの形で水平方向に連続して打ち込み、それを支保工で支え、その内壁をコンクリートで固める施工法です。人力や爆薬等を用いて掘削し、 安全に施工するためアーチ部の覆工コンクリートを全線で施工後、側壁部の覆工コンクリートを施工します。アーチ天端部に空洞ができやすく、覆工コンクリート施工後に裏込め注入することもあります。NATM と異なり防水機能がないことから、地下水が多い場所では漏水が発生しやすい構造となります。
矢板工法
<NATM工法の施工手順>
トンネル周囲の地山がトンネルを支えようとする保持力を利用し、掘削後吹付けコンクリ ート、ロックボルト、鋼製支保工等により地山の安定をさらに確保して掘進する工法です。 爆薬や大型の機械で掘削し早く施工するためアーチ・側壁の全断面一括で覆工コンクリー トを施工します。矢板工法とは異なりアーチと側壁の間に打ち継ぎ目がなく、覆工コンク リートが薄いことが特徴です。
NATM工法