はじめに
北海道の技術発展と後継者養成を考えるとき、歴史に学ぶことは工学先進国の欧米では常識です。筆者は、大学卒業後長く学会活動として、高校大学の物理教育と北海道開拓技術史研究に従事し、多くの産業遺産評価と保存運動(具体的には、小樽運河保存、夕張石炭産業遺産保存、上士幌町コンクリートアーチ橋梁保存)、産業考古学全国学会の推薦産業遺産、保存功労者表彰推薦、北海道遺産の産業遺産内容選定(炭鉱、ア―チ橋、煉瓦建築、農業機械、港湾、鉄道遺産)、産業考古学の事典、啓蒙書執筆刊行ほかを続けてきました。
さて、北海道開拓を技術史として概観する際にまず何に注目すべきかを考えてみましょう。
明治政府の開拓使顧問団長であったケプロンによる北海道開発の調査報告書『ケプロン報文』(1875年)では、北海道開発の2方向(冨源の開発、もうひとつは北方防衛=屯田兵制度設立に結実)では、資源開発に必須の輸送体系確立が本質でした。これは最終的には鉄道、道路網整備です。ただし、技術史の考察では鉄道、道路に代替する先駆技術の運河、河川輸送の整備時代を歴史的にきちんと見ておくことが重要です。
本稿では、このような認識から第1話「北海道開拓の先駆けとなった運河」、そもそも運河とは何か、その技術の変遷を探る第2話「世界の運河の歴史」、そして最後のまとめとして第3話「運河に見る産業考古学の意義」という3話構成で運河の土木技術を歴史というフィルターを通してご紹介します。
今回は第1話「北海道開拓の先駆けとなった運河」ですが、本題である北海道の運河の話に入る前に日本最初の西洋式運河技術体系で、北海道の運河技術に直接の影響を与えた京都市琵琶湖疏水について、その歴史と設計者、現存遺構内容について見てみましょう。
1.日本初の発電用水路「琵琶湖疏水」(京都市)
琵琶湖疏水は、明治維新での東京都遷都で急速に廃れた京都の近代化再生施設として、琵琶湖からの京都市内給水と生産物資輸送を、西洋式運河技術導入で大阪へ往来すべく、工部大学校(東京帝大工学部の前身)1期生の田辺朔廊(1861~1944年、東京都出身)により、北垣国道京都府知事の指揮のもとで政治と土木事業の結合事業として、2期(第1疏水:明治18~23年、第2疏水:明治41~48年)に渡り建設され、京都市の物流近代化、電化(日本最初の水力発電所建設と市電走行)に貢献しました。
琵琶湖疏水完成後、田辺は東京帝国大教授となり、さらに京都府知事から北海道知事となった北垣国道に呼ばれて北海道官設鉄道敷設部長として北海道の国鉄線の拡充に貢献しました。関門海峡海底トンネル建設の提言も行ない、琵琶湖疏水での実績により、日本人で最初の国際的イギリス土木学会テルフォード賞を受賞し、京都帝国大教授、学長となり、日本の土木工学と教育に貢献しました。最後は記念碑的『明治工業史』を編纂し、第17代土木学会会長(昭和4~5年)にもなりました(大学教員出身では、第6代会長廣井勇に次いで2人目)。
琵琶湖疏水工事の意義は、以下にまとめられます。
(1)近江、北陸、京都を繋ぐ唯一の輸送路で、幕藩時代から計画された舟運プロジェクトを完成、(2)日本初の発電事業、蹴上水力発電所建設(世界先進のアメリカ電気・水車工学導入)により、日本初の京都の電化工場操業、市電導入に成功した、(3)都市としての景観向上に寄与した。琵琶湖疏水の豊富な水が京都市内に流れ、船溜の水辺公園、寺院の池庭園が発達し、「水の都・京都」の創成となった。琵琶湖疏水での西洋導入の基本技術は蹴上のインクライン(階段式運河よりは効果的昇降施設)で、南禅寺近くにある。これは、明治18年市提出の疏水計画に共鳴した寺院が、広い社寺土地を京都市に提供したもので、出現した古典的日本寺院景観と西洋技術(水路閣、水道橋)が共存する独特の混合景観は、京都市の土木事業での都市再生事業開始と成功を歴史的に示している。
2.岡崎文吉による創成運河
北海道でこの琵琶湖疎水の技術を生かして、田辺の技術継承者 岡崎文吉が築造した階段式運河が札幌豊平川扇状地上の創成運河(慶応2年の大友亀太郎建設の大友堀の南北拡張運河)です。
岡崎文吉(1872~1945年、岡山県出身)は、札幌農学校第2期生廣井勇(1862~1928年、高知県出身)による土木工学科(明治20(1887)~40(1907)年)の第1期生で、廣井の創始した北海道土木工学の完成者、廣井の高弟であり、北海道の運河建設と石狩川改修の創始者、廣井の後の第2代治水工事事務所長となった人物です。
この岡崎が北海道で最初に手掛けた創成運河(明治28(1895)年 完成)は、当時の開拓地札幌市に全国先進の西洋技術の典型として独特の近代化景観を与え、当時のマスコミの一大話題となりました。明治初期の近代化途上の日本では、北と南で方や未開地開拓、方や旧首都の近代化再編と全く目的が異なるにも関わらず、同じ西洋式運河技術が同時に展開したという歴史的事実は重視される必要があります。
琵琶湖疏水は導入西洋運河技術で作成されましたが、中心の蹴上インクラインは西洋式縦型インクライン技術の典型でした。最初は蒸気力、すぐに蹴上水力発電所稼働によりモ―タ―駆動でのケーブルカー式で運転されました。台車レールゲージ幅は現地測定結果では2mで、敷設レール上に貨物を積載したままの平底船を台車上に載せてワイヤーとプ―リ―で昇降させました。高度差60m、水平距離400mの斜面(傾斜角は、9度)で使用したもので、明治18年から昭和40年代まで80年間使用されました。廃止後は長く放置されていましたが、昭和60年疏水100年記念設置の「疏水記念館」とともに、平成27年の疏水竣工130年記念での疏水遺構全体整備(高瀬川含む)の一貫で整備展示化(台車、平即船、プ―リ―、田辺記念像と顕彰碑)され、現在はフットパス地図も作られ、新しい手法での京都市産業遺産観光名所となっています。
岡崎文吉肖像(出典:北海道開発局『川の博物館(岡崎文吉解説資料)』、平成5年)
廣井勇肖像(出典:『工学博士・廣井勇伝』、昭和5年)
3.岡崎の運河土木の内容と評価
岡崎文吉は大変早熟で、廣井勇(札幌農学校工学科教授)、北垣国道(北海道知事)に見出だされ、北海道での将来が嘱望され、期待に応えて道庁時代前中期に河川土木に優れた実績を残しました。岡崎の河川土木工学の端緒(処女作)となったのは、これまで述べた、北垣国道北海道知事が京都府知事時代に田辺朔郎に展開させた、西洋運河技術でした。岡崎は基本理論を教師の廣井(札幌農学校赴任前の欧米留学7年間時期での橋梁、鉄道、運河視察)より学び、実際は北垣より指導された内容で、石狩平野開発として閘門式の4本の運河(銭箱・茨戸間運河、札幌・茨戸間運河、幌向運河、長沼馬追運河)を設計し、明治28(1895)~30(1897)年に竣工させました。運河輸送の初期の効果は甚大で、石狩村入植者、札幌市中央部、長沼町への物資輸送と開拓に成功しました。ただし、岡崎運河体系は運河水路の夏季のメンテ不足での水路閉塞、多数の閘門通過時間の多大性(銭箱―茨戸―札幌では8時間)で、すぐ並行走行の馬鉄、明治13年開通後整備された幌内線鉄道整備(札幌貨物駅発展)で、明治40年には廃棄され、採算性、有用性が中心の技術評価では失敗の技術であったと評価されています。
この技術評価の一例では、札幌・茨戸間運河では、札幌豊平川扇状地の最大傾斜面(北6~40条)では平面10kmの高度差10mで傾斜角1度程度(導入先の京都インクラインの蹴上坂では9度)で、階段式は不適切であり、10kmのインクライン方式でも長大に過ぎ(動力問題もある)、荷上げは馬鉄で十分だったのです(欧州では傾斜10度で斜面1000m未満で使用)。
この創成川として現存する岡崎運河遺構について、吉田裕二氏(元開発局技師)による最近(北海道産業考古学会誌、2017、20年、『北の技文化26,28号』所収)の浩瀚な歴史研究があり、優れた内容なので、札幌・茨戸運河の当時の状態の復原図面を参考にご紹介します。
岡崎にとり、これら運河で水平運河は成功したが、階段式運河技術は過渡的(失敗)の技術と言えるもので、京都方式の直接輸入であり現地に即した技術を採用したわけではありませんでした。岡崎はこの運河建設の経験を土台に総括して、著名な石狩川改修工事技術の確立に成功して歴史に名を残すことになりますが、技術は失敗も含めて、極めて経験集積の体系であることをこの例はよく示していると言えるでしょう。
岡崎文吉設計の札幌・茨戸間、花畔・銭函間運河図面(出典:北海道道開発局『石狩川治水の曙光』、1990年))
創成川閘門断面図(吉田祐二作成)
札幌・茨戸間運河(後の創成川)の閘門位置古地図(明治32年、石狩市・田中實資料)
(参考資料)岡崎文吉の経歴と業績
岡崎文吉は、北海道で初めての治水計画書『石狩川治水計画調査報文』を作成し、石狩川治水の基礎を築きましたが、護岸法思想を巡って内務省との対立(内務省の輸入フランス型の自然を強引に制覇する剛性護岸法に対して、岡崎は廣井流の自然に優しい単床ブロック工法(コンクリートマット方式)の柔構造護岸法を開発、自然水利学を創始した)があり、結果、道庁の早期退職となり北海道庁高官とならず、海外(中国)に技術拡散を余儀なくされました(結果的には、札幌農学校の建学精神の「世界に飛躍」の実現者となりました)。
しかし、岡崎の創始した時代に先行した自然水利学は、環境調和型技術隆盛の現代で再評価され、極めて関心が高いものとなっています。岡崎のこの柔構造発想を最も高く評価したアメリカ土木工学では、ミシシッピ川改修で、岡崎の開発した小型コンクリート単床ブロック(15cm角で60cmの四角柱)をより大型のものに発展させ、柔構造護岸法主流の技術となって評価が高く、国際的にも定着した技術となっています。廣井の自然摂理に配慮する理想的工学(廣井工学)の基本発想は、札幌時代の高弟の岡崎により自然水利学で実現されています。
岡崎文吉の経歴(出典:藤井筆男『土木人物事典』(2004年ほか)
・1872年 岡山市で士族岡崎寿の長男として誕生
・1883年 岡山中入学 1886年15歳で岡山英学院で経済、歴史、地学教授
・1887年 札幌農学校入学(9期生)、工学科転学(1期生、校費生、廣井の高弟)
・1891年 札幌農学校卒業、鉄道工学、水利学研究生(助手)となる
・1892年札幌農学校雇い、93年助教授となる(22歳)
・1895年 花畔・銭函間、札幌・茨戸間運河設計図完成(欧州運河技術導入;24歳)
道庁が札幌・茨戸間に岡崎構想で排水運河を建設(国家事業)
・1895年 北海道道庁技師となる 1897年、鋼鉄製豊平橋の設計施工
・1898年 上京し、石狩川大洪水に際し、組織的計画的調査の必要を提唱、洪水学を本格的に研究開始する(日本における流水学の創始;27歳)
・1900年 道内主要港湾(函館港ほか)、国後島調査
・1901年 北海道庁土木部監査課長となる(30歳)
・1902年 欧州出張(北海道庁より嘱託の土木工事法、鉄道橋梁、河川運河体系調査)
・1904年 石狩川大洪水で、流量、氾濫貯水量計測で治水予測に成功する
・1909年 著書『函館港湾調査報告書』、同『石狩川治水計画調査報文』出版
・1910年、土木部・石狩川治水工事事務所長、函館港湾事務所長を勤務する(33歳)
・1911年 論文「石狩川治水計画に関する42年式導水護岸コンクリート鉄棒単床について」(単床ブロック工法の提唱)を発表(工学会誌;40歳)
・1914年 東京大学より工学博士の学位取得(原始河川の処理)(42歳)
・1915年 著書『治水』(治水の自然地理学、コンクリート工法での護岸理論と実際の提示の主著)出版(44歳)
・1917年 石狩川治水事務所長時、著書『大正5年度石狩川注水工事報文』出版
・1918年 土木部・河川課長、内務技師(47歳)
・1920年 内務技師、道庁技師として、支那奉天省上遊遼河工程司会長として赴任(49歳)
・1924年 遼河改修事業着手(北海道庁退職、53歳)
・1926年 正4位叙勲、1932年、満鉄経済調査会第3部水利会班所属
・1940年 著書『遼河改修工事記録』出版(69歳)
・1945年 東京の自宅で死去(74歳)
北海道遺産協議会監事、産業考古学会理事、元酪農学園大学教授
<経歴>
・1946年9月26日北海道函館市生まれ(74歳)
・1965年北海道立札幌西高等学校卒業
・1965年北海道大学理類入学
・1969年北海道大学理学部高分子学科卒業
・1972年北海道大学大学院修士課程高分子学専攻修了
・1972年~1974年札幌市医師会看護学校講師(化学)
・1974年~1997年北海道札幌藻岩高等学校教諭(物理学)
・1997年~2007年北海道札幌開成高等学校教諭(物理学)
・1993年~2008年北海道教育大学札幌校非常勤講師(技術史・技術論)
・2003年~2007年酪農学園大学非常勤講師(科学史)
・2007年~2017年酪農学園大学教職センター教授(理科教育学、科学技術史、産業考古学)
・2017年~2018千歳科学技術大学非常勤講師(理科教育学)
・2018年~北海道大学総合博物館資料調査研究員(ボランティア)
<専門>
高分子溶液物理学、物理教育学、産業技術史学、博物館方法論、世界遺産論
<学会等役職歴>
・1997年~2003年北海道庁空知炭鉱の記憶推進委員会委員長
・2003年~北海道遺産協議会監事(2001,2004、2018年遺産選定委員)
・2008年(日本産業技術史学会)、2010年(産業考古学会)、2014年(日本科学史学会)総会全国大会実行委員長(会場酪農学園大学)
・2015年~2019年土木学会北海道支部後援・台湾土木遺産ツアー実行委員長
・2017年1月札樽地区測量設計協会新春講演会講師(産業考古学)
・2019年1月国交省北海道開発局函館開発建設部技術者フォーラム(函館市)基調講演講師(函館湾岸地域土木遺産と産業考古学)
・1997年~2007年北海道産業考古学会事務局長、2007年~同会長
・1997年~日本科学史学会北海道支部長、日本産業技術史学会理事
・2012年~産業考古学会理事(国際、組織担当)、2012年~2017年