これまで「北海道開拓の先駆けとなった運河(運河の話 第1話)」では、北海道開拓における運河建設の歴史的な意義について、そして「世界の運河の歴史(運河の話 第2話)」では、世界に目を移して運河技術の歴史的な変遷について概観し、運河が社会を支える基盤となる産業技術の一つとして果たしてきた意義と役割についてご紹介した。
「運河の話」の最終稿(第3話)となる本稿では、運河のみならず産業技術全般を俯瞰し、「過去を知り、現代を理解し、未来を考える」ための学問体系である「産業考古学」の意義と役割について述べて、「運河の話」のまとめとする。
1. 産業考古学、技術の本質とは何か。その歴史的考察
(1)産業考古学とは何か その国内国際組織
この一文の考察の底流となっている産業考古学Industrial Archaeologyは、産業革命期遺産の急速な廃棄に危機感を持ったイギリス考古学会内で、1950年代に分科として創始された、調査対象に工場、鉄道、運河、機械等の産業遺産、研究方法に従来の考古学手法(調査、分類、作図、考察、保存、公開)を使用する新しい考古学である(日本では学の形成よりはマネジメント重視で、近年は産業遺産学に改称)。最初の国際会議(TICCIH)は1973年に産業革命創始のイギリスのアイアンブリッジで開催され、開催地は世界の産業革命発展国を巡回し、その会場地はほぼ世界遺産(複合遺産)認定地になっている。
日本では大学、博物館、保存会の専門家、教育委員会、一般学校教員を中心に、1977年(北海道は1年後)に東京で学会結成され、現在会員600名と14の地方支部が地域の技術遺産研究保存で活動し、全国大会での講演研究発表会、遺産見学会の開催、論文誌発行、全国産業遺産認定、保存功労者表彰、国際学会への派遣等の活動を44年間行なっている。
日本学会創立の動因は、今日の徹底した技術革新下で急速な明治期の産業遺産廃棄の現実があり、事物に即して研究する考古学の本質から産業遺産の保存と評価が急務だったことによる。国際産業考古学会は1973年に国際組織TICCIHを設立し、3年ごとの国際会議は世界の産業考古学研究の交流場所となり、急速な明治産業革命を実現した日本の発表は注目された。現在第18回(2021年7月カナダ・モントリオール会議予定)を数える。アジアでは初の会議(2012年、第15回台湾会議、テーマは日本領有時代のコロニアル・テクノロジー)と中間会議(2005年、名古屋)が開催され、結果を受けてアジア組織(ANIH、事務局は台湾)が結成された。筆者も長く研究した北海道炭鉱史を発表し国際研究者交流をした。TICCIHはイコモスと並びユネスコの世界遺産諮問団体であり、この国際学会関与で日本の世界遺産認定も大きく前進した。
(2)技術遺産の本質について
技術の本質(技術論、労働過程の体系、自然科学法則の適用で実現される人間の社会活動改善・有用化の歴史的文化体系)からは、技術発展による現代では文化財としての産業遺産の価値は大きく、今日の世界遺産認定物件でも産業遺産が増加している。
技術の基本原理は自然科学同様に本来普遍的なものだが、その実践に於いては、国外、国内地方的に多様性を示し、気候風土、民族的気風、地理的社会的状況および政治、経済情勢などによって様々な地方的特色が現われる(技術文化の社会経済史的性格)。これは、産業技術の文化財的側面、産業遺産の文化財的性格(技術の地方性)という。
これらのことから、産業遺産の価値と評価、保存の意義として、(1)現代社会を支える基盤としての産業技術があり、それはその時々の社会の要求に応えて築き上げられた先人達の努力の結晶である、(2)それを保存評価し、遺産として活用することによって初めて、「過去を知り、現代を理解し、未来を考える」ことが出来る機能がある。(3)産業技術の発展の過程(その地に何故その技術が選ばれ、地域とともに発展し、別の技術に代替されたか。北海道開拓技術はその典型)をモノに即して考察し、技術と人間、社会との関わりを理解しつつ、これからの社会の在り方を技術の本質(人間にとっての有用性、科学原理の応用学、技術革新を持つが、基本的に使い捨て文化)から考察する、(4)時代の変遷を超えて現存し、歴史と伝統の実相を今に伝える貴重な文化遺産として、技術、社会、社会教育の資料として、また、観光資源として保存活用することの可能性を見出だすものである。これは技術史研究では基本に置くべき根本原理である。また、この技術文化史運動を推進する専門団体としての産業考古学会の責務として以下がある。
1) 産業技術の生成、発展の過程を伝え、これからの進むべき方向を示す。
2) 創造、開発、実践の実相を示し、その感動と本質を伝える。
3) 技術と人間・社会の関わり方を示し、その影響の影響力と波及効果を示す。
4) 地域社会組織の歴史と伝統を示し、その個性をアピールする。
この技術の機能を評して、かつて、第4代北海道産業考古学会長(苫小牧高専機械工学科教授)の故大島聡範氏は以下の言葉で、技術文化の本質を示した。「天に時あり、地に気あり、材に美あり、工に巧あり。この4者を合せて良となすを得べし(環境と主体に発展の好機あって、さらに最良の材料、職人の技が揃う時、最高の技術が生まれるという技術文化の本質。『工考記』:中国紀元前30年頃の世界最古の技術書のひとつ)
2.まとめ(土木技術史教育の意義、土木教育の方法としての人物伝強調)
以上の考察から、土木技術とは、人間社会の発展のための新旧変革の技術であり、その地方性から、各地の近代化に貢献した歴史があることが分かる。産業考古学はその産業遺産を調べてこの人類の発展を実証的に裏付け、その発展史を知ることにより未来を切り開くことを意義目的としている。
技術の北海道での展開である、札幌建設の基礎となった大友亀太郎による大友堀と、道庁技師の岡崎文吉による創成川への発展史、その他の道路、港湾建設史の各論を北海道土木史で扱い、また、札幌農学校教授の廣井勇が東京帝国大学教授に転出後に教授した八田與一による、台湾烏山頭ダム(竣工当時東洋一規模)建設、久保田豊による水豊ダム(北朝鮮)建設、青山士(あきら)によるパナマ運河建設などの国際土木事業、さらに土木技術の発展に関わった土木人物伝(藤井筆男『土木人物事典』(アテネ書房、2004年)、緒方英樹『人物で知る日本の国土史』(オ―ム社、2008年)などを参照)の発行が、土木教育事業の歴史的展開方法として、アニメ劇画素材として、人と土木の関係、土木における人脈の重要性を強調する点で今後有効である。
北海道遺産協議会監事、産業考古学会理事、元酪農学園大学教授
<経歴>
・1946年9月26日北海道函館市生まれ(74歳)
・1965年北海道立札幌西高等学校卒業
・1965年北海道大学理類入学
・1969年北海道大学理学部高分子学科卒業
・1972年北海道大学大学院修士課程高分子学専攻修了
・1972年~1974年札幌市医師会看護学校講師(化学)
・1974年~1997年北海道札幌藻岩高等学校教諭(物理学)
・1997年~2007年北海道札幌開成高等学校教諭(物理学)
・1993年~2008年北海道教育大学札幌校非常勤講師(技術史・技術論)
・2003年~2007年酪農学園大学非常勤講師(科学史)
・2007年~2017年酪農学園大学教職センター教授(理科教育学、科学技術史、産業考古学)
・2017年~2018千歳科学技術大学非常勤講師(理科教育学)
・2018年~北海道大学総合博物館資料調査研究員(ボランティア)
<専門>
高分子溶液物理学、物理教育学、産業技術史学、博物館方法論、世界遺産論
<学会等役職歴>
・1997年~2003年北海道庁空知炭鉱の記憶推進委員会委員長
・2003年~北海道遺産協議会監事(2001,2004、2018年遺産選定委員)
・2008年(日本産業技術史学会)、2010年(産業考古学会)、2014年(日本科学史学会)総会全国大会実行委員長(会場酪農学園大学)
・2015年~2019年土木学会北海道支部後援・台湾土木遺産ツアー実行委員長
・2017年1月札樽地区測量設計協会新春講演会講師(産業考古学)
・2019年1月国交省北海道開発局函館開発建設部技術者フォーラム(函館市)基調講演講師(函館湾岸地域土木遺産と産業考古学)
・1997年~2007年北海道産業考古学会事務局長、2007年~同会長
・1997年~日本科学史学会北海道支部長、日本産業技術史学会理事
・2012年~産業考古学会理事(国際、組織担当)、2012年~2017年