海を渡り新世界へ
卒業後の廣井は、開拓使で技師として働いた。最初の仕事は、北海道初の鉄道として建設された幌内鉄道(小樽〜三笠)沿線の小さな橋の設計だった。試運転の日、廣井は「自分のつくった橋は、実際の重みに耐えられるだろうか」と、万が一のときにどう責任を取るかを考え、顔面蒼白でブルブル震えていたという。設計技術には絶対の自信を持っていた廣井の、安全性への責任感と技術者としての良心がうかがえる。
1882(明治15)年、開拓使が廃止されると工部省御用掛を命じられ、廣井は東京へ転居する。東京では鉄道局で東京〜高崎間の建設工事の監督として荒川橋梁の架設に携わった。そして翌年、札幌時代からの節約生活で貯めたお金でアメリカ渡航を果たす。土木技術の先進国で学びたいという夢を実現させたのだ。
アメリカでは、ミズーリ州セントルイスでミシシッピ川の河川改修工事に携わったあと、橋梁設計事務所で技術者として勤務。次に勤めたバージニア州の鉄道会社では設計と製図を担当した。その勉強熱心で紳士的な態度に上司らは信頼を置き、廣井の下宿先の部屋には夜更けても明かりが灯っていることに「日本の青年はこんなに勉強するものか」と感心した。このころの生活は苦しかったようだが、故郷の母への送金を欠かすことはなかった。
次に、廣井はデラウェア州の大手橋梁会社に入社。鉄橋の設計と製作に従事しながら、実地で学んできたことをコツコツと論文にまとめていた。それらは後年、アメリカで『プレート・ガーダー・コンストラクション(鈑桁橋の設計)』というタイトルで出版され、土木工学の教科書として使用されるほど高い評価を得た。
1887(明治20)年、廣井は札幌農学校から、新設が決まった工学科の主任教授への就任を要請される。22歳でアメリカへ渡ってから4年が過ぎていた。まず、高度な工学教育で産業の発展に成功していたドイツへの留学が命じられ、助教として留学。工科大学で土木工学等の学位(土木工師)を取得した。1889(明治22)年に帰国後、28歳の廣井は若き教授として札幌農学校に赴任し、1890(明治23)年からは北海道炭礦鉄道の嘱託で橋梁の設計を担当する。さらに北海道庁の技師も兼任して多忙を極めた。そして郷里から母を呼び寄せ、30歳で結婚。生涯に6人の子をもうけた。
そのころの廣井には、こんなエピソードがある。ドイツ艦隊が小樽港に寄港した際、北海道庁長官の永山武四郎がドイツ語のできる廣井に通訳を頼みたいと、書記を農学校へ走らせた。書記が授業の真っ最中だった教室に飛び込み、永山長官からの依頼であることを伝えたが、廣井は「今、授業中です」と言って授業を続けた。「長官からの御命令なのですが、それでもよろしいのですか」と言われても、「行けません」と答えて取り合わなかったという。
新たなコンクリートの追求
1893(明治26)年から、廣井は北海道庁技師を本務とし札幌農学校教授を兼務とする。そして1895(明治28)年に札幌農学校の工学科が廃止されると道庁技師の仕事に専念し、特に、港湾の分野で著しい功績をあげた。
廣井は、イギリス人技師・メークが行っていた北海道の港湾に関する調査を1890(明治23)年に引き継いでいた。そして北海道の玄関口であった函館港が、真っ先に改良工事の対象となる。1896(明治29)年、廣井は函館区(現在の函館市)の要請で実施された函館港改良工事の事業監督となる。
1896(明治29年)ごろの廣井勇。函館港改良工事監督当時(北海道大学付属図書館北方資料室 所蔵)
建材に用いられたのが、当時最新の素材だったコンクリートブロックを使用した。しかし、1892(明治25)年の横浜築港工事では、防波堤のコンクリートブロック約1万2500個うち1700個あまりに亀裂や崩壊が見られ、大きな問題となっていた。
廣井は横浜港の現場を視察して、自身もまだ扱ったことのなかったコンクリートを検証。ドイツの基準やフランスの研究結果を参考に、コンクリートの材料であるセメント・砂・砂利の配合と水の量を決める独自の試験を行い、海水に強い耐海水性コンクリートの配合を導き出した。そして製造日、原料セメントの産地、砂の採取地が書かれたひょうたん型のテストピース(供試体、モルタルブリケット)を約6万個作り、抗張力試験機(ミハエリス二重てこ式試験機)で両端を掴んでひっぱり、どのくらいの力で切断されるかを求めるという試験を行った。
ミハエリス二重てこ式試験機。散弾(鉛玉)を落下させ、その重みでモルタルブリケット を切断した(北海道開発局小樽開発建設部小樽港湾事務所 所蔵)
6万個作られたひょうたん型のテストピース。試験前と試験後の状態
(北海道開発局小樽開発建設部小樽港湾事務所 所蔵)
また、横浜港の調査では、亀裂や崩壊の原因のひとつはコンクリートの搗固(つきかた)め方にもあると結論づけられていた。当時は作業員が人力で製造していたため、質が均一でなく、空気の隙間があると海水が入り込んで亀裂の原因になったのである。廣井は、熟練した者に製造させることや、コンクリートブロックが均質に作られているか注意を払い厳重に監督することを現場に徹底させた。函館港改良工事は1899(明治32)年に竣工。これが現在の函館港の基礎となっている。
廣井の非凡さは、耐海水性コンクリートができたあとの変化についても研究を行ったことにある。廣井は、モルタルブリケットの経年変化を記録する独自の長期耐久試験を開始した。海水、淡水、空気中に置き50年の経年変化を観察するもので、これも抗張力試験機による測定で変化を調べた。のちの東京帝国大学教授時代には100年試験をスタートさせ、1896(明治29)年から現在まで廣井の作成したマニュアルに従って定期的に行われている。
小樽築港という大事業
次に手掛けた小樽築港は、廣井の技術者としての完成度の高さを今に伝える大事業となった。
弓状の湾を持つ小樽港は、空知の石炭や札幌の発展とともに、北海道の西側の輸送基地として注目されていた。しかし、外洋からの波が激しく貨物への被害も多かった。防波堤の建設が求められていたものの、波の激しい外洋に造った例はなく実行されてこなかったのである。廣井は、北海道庁長官・北垣国道に港湾整備の必要性を訴えて調査を開始。1895(明治28)年に試験工事を行い、波による影響などデータを収集する。1897(明治30)年、廣井は小樽築港事務所長に任命され札幌農学校を辞職し、本格的に第一期の小樽築港工事である北防波堤の建設に着手した。
当時、国内の港湾整備を担っていたのは国に雇われた外国人技師だった。1878(明治11)年の坂井港(福井県)と野蒜港(宮城県)はオランダ人技師が手がけたが、ほどなく激しい波で突堤が破壊されるなどし、流通拠点となるような本格的な築港とはならなかった。横浜港はイギリスの元陸軍少将の技師・パーマーが担当したが、コンクリートの問題が起こったのは前述の通りである。
小樽港の北防波堤建設には、先の函館港改良工事で得たコンクリートのデータが生かされたが、廣井はドイツのミハイリスの研究からセメントに火山灰を混ぜると強度が増すとことを知り、費用の大幅な削減も見込めることから比較試験を開始する。そして、大規模な施設としては世界で初めて、火山灰を混入したコンクリートブロックを大量に使用することを決定。火山灰は現場の近くで採取し使用した。友人たちには「そんなことをすると2、3年経って波にぞくぞくさらわれてしまうぞ」と冷やかされたという。1902(明治35)年からは、コンクリートブロックの製造に空気圧縮機を導入。これにより人員や時間が節約でき、より均一な質で製造できるようになった。
小樽の荒波に対抗するには、コンクリートブロックの積み方も重要だ。廣井は、斜めのコンクリートブロック(斜塊)を積む工法を採用。斜めになったブロックが互いに支え合って一体となり、波の圧力を分散させる効果がある。アジア圏では当時イギリス領インドだったマノーラ港(現パキスタン)やコロンボ港(現スリランカ)で実績があったが、国内で実際に工法として取り入れたのはこれが初だった。小樽港では、水平に対し71度34分の傾斜をつけて、1個13〜24トンのブロックを4層に積み、全体で約7メートルの高さとした。
防波堤断面図(「小樽築港工事報文 前編」より)
北防波堤は、後年、上部にコンクリートが上積みされたが、廣井が設置したコンクリートブロックの斜塊は現役で機能している。
そして廣井は、防波堤の断面を決めるための波力計算式を発見する。当時の防波堤は、地形や海象などの自然条件が近似する港の防波堤を参考に設計されており、廣井も小樽港に条件が似たコロンボ港を参考にしたわけだが、海外の研究成果を基に独自の方法で波力算定式を導き小樽港北防波堤を設計した。これがのちに「廣井公式」と呼ばれる波力計算式へとつながり、日本の港湾技術の礎となった。
北防波堤の現在(北海道開発局小樽開発建設部小樽港湾事務所 所蔵)