訪れた最大の危機
防波堤の工事では、捨石の基礎(マウンド)の上にコンクリートブロックを積んでいくが、マウンドを海底で均す作業は人の手に依らなければならない。マウンドが凸凹だと隙間なくコンクリートブロックを積み上げることができないからだ。この作業は潜水士によって行われるが、冷たい小樽の海は過酷である。廣井も潜っており、「陸に上がると手がかじかんで筆を持てないくらいだ」と回想している。マウンドの施工監督という重労働を担ったのが、函館港工事のときから廣井の補佐として働いた技師・青木政徳だった。自ら潜水服を着て5メートルの海底に潜り、細心の注意を払い作業を進めた。しかし、肺を患い1900(明治33)年に死去。その功績の大きさは計り知れない。青木の後任は札幌農学校出身の技師・内田富吉が務めた。
人の手が必要である一方、重量のあるコンクリートブロックを積み上げるには、機械での作業が必須である。廣井は、最新技術だった大型機械による一貫施工「スローピング・ブロック・システム」を取り入れた。ブロックをゴライアス(軌道起重機)と小型蒸気機関車で運搬し、積畳機「タイタン」で設置するという方式で、作業の確実性を高めると同時に効率化を図ったのである。
軌道起重機(ゴライアス)。上部の右側に廣井の姿がある(「小樽築港工事報文 前編」より)
積畳機「タイタン」でコンクリート塊を海中に設置する(「小樽築港工事報文 前編」より)
だが、着工から2年半が経った1899(明治32)年12月25日、最大の危機が訪れる。廣井の回想によると、「一日遽(にわか)に暴風の襲う處(ところ)となり忽(たちま)ち怒涛澎湃(どとうほうはい)として起り…」とある。そして突然暴風となり、すさまじい荒波が防波堤を襲い、ものの2、3時間で資材はすべて流されてしまった。残ったのは360メートルまで伸びた防波堤と積畳機のみ。だが、それらもいつまで耐えられるかわからない。さすがの廣井も、見ているだけで手の出しようがなかった。
そのときの心情を、廣井は「自分の熱血を注いだ防波堤とともに情死する決心」だったとしている。廣井は、工学者としての責任を常に念頭に置いていた。「自分が提案した工事なのに失敗したら面目ない。一命を持って責任をとるしかない」。そう覚悟した廣井は、いつの間にか眠ってしまった。
夜半過ぎ、目覚めると天候は収まっていた。急いで港へ行ってみると、防波堤は破壊されることなく、積畳機も落ちていない。廣井は「天を仰いで神に感謝した」と振り返っている。
朝になり再度確認すると、積畳機が少し傾いていただけだった。100トンの積畳機を動かすほどの波の力に、防波堤は耐えたのだ。実は、あと少し荒天が長引いていれば積畳機は海に落ちていた状態だったという。
北防波堤を越える荒波(北海道開発局小樽開発建設部小樽港湾事務所 所蔵)
1000年先を見据えるエンジニア
1908(明治41)年、小樽築港の第一期工事が竣工。長さ約1288メートルの北防波堤が11年かけて完成した。1899(明治32)年から道庁技師を兼務しながら東京帝国大学教授となっていた廣井は、竣工の式典前日に東京から駆けつけた。ところが、ともに汗を流した所員らは式典に招かれていないことを知る。廣井は、東京の自宅の夫人に貯金全部を為替で送るよう電報を打ち、送られてきた500円で防波堤上にシャンパンや赤飯、料亭の折詰めなどのご馳走を並べて所員らと祝った。それが廣井の個人的な出費だったとは、誰も知らなかったという。
北防波堤の灯台を背に撮られた、第一期工事竣工式の記念写真。最前列中央が廣井(北海道開発局小樽開発建設部小樽港湾事務所 所蔵)
小樽築港工事に従事した人々。写真は第二期工事のころ(明治41年ごろ)か(北海道開発局小樽開発建設部小樽港湾事務所 所蔵)
そして引き続き、小樽築港第二期工事として、南防波堤と島防波堤の新設および北防波堤の延長に着手。廣井は顧問となって現場を離れ、東京帝国大学の教え子・伊藤長右衛門が後継者として小樽築港事務所長となり指揮を執った。伊藤は日本で初めて防波堤にコンクリート製ケーソンを導入したことや、斜路を使ったケーソン進水と、小樽から留萌にケーソンを海上曳航したことで知られる。第二期工事は1921(大正10)年に竣工。廣井から伊藤へとバトンを渡しながら24年をかけて、小樽港の防波堤工事は完成した。
北防波堤が完成したあとの、明治45年ごろの小樽港。左手から防波堤が延びているのがわかる(北海道開発局小樽開発建設部小樽港湾事務所 所蔵)
廣井の重要な仕事は港湾だけではない。橋梁の分野では1911(明治44)年、関門海峡に鉄道を通す計画が持ち上がった際に、橋梁案を担当している。中央部の支間長(橋脚と橋脚の距離)が576メートルと、現在でも世界最長のカンチレバー・トラス橋を監督。結局、国防上の理由からトンネル案が採用されたが、欧米にも引けを取らないスケールの橋が実現していたかもしれない。
教育の面では、1919(大正8)年まで東京帝国大学工学科で橋梁工学を担当し、授業では「橋をかけるなら、人が安心して渡れるようなものを作れ」と言い続けたという。ほかにも、築港専門書『築港』の出版や、土木の専門用語の統一と英語専門用語の和訳を目的に『英和工学辞典』を編さんし、近代土木の教育普及に力を入れたことも大きな功績である。
『築港』では、港湾という国家の重要な事業に携わる技術者について、「百年にわたって誤りがないように決心しなければならない」と述べている。「技術者の千年にわたる誉れとはずかしめは、設計の如何にかかっている。その用意が綿密ですみずみまでゆきとどき、遠い将来のことを考える必要があることを悟るべきである」。こう記したように、廣井は100年先、1000年先を考えて設計にあたった。その言葉通り、小樽港の北防波堤は100年以上を経た今も現役である。
現在の北防波堤(北海道開発局小樽開発建設部小樽港湾事務所 所蔵)
1928(昭和3)年10月1日、『英和工学辞典』の編さん会議に出席した廣井は、家に帰るといつも通り床についた。そのとき狭心症に襲われ、15分ほどのちに神のもとへ召された。67歳だった。
札幌農学校の同期であり植物学者の宮部金吾は、同年に廣井の小伝を執筆した。その中で、小樽築港の際に火山灰を混ぜたコンクリートブロックを使用したことを挙げながら、次のように記している。
「君が綿密なる科学的実験の結果を経て確信する処があったによると雖(いえど)も、また君の自信と英断とに因(よ)るというを、はばからないのである」。そして「崇高なる信仰の上に立った生涯は君をして清く正しくあらしめた」と評した。
葬儀で追悼の感想文を読んだのは、宮部と同じく札幌農学校の同期でキリスト教思想家の内村鑑三であった。そして内村も、廣井をこう称した。「清きエンジニア」であったと。(完)
晩年の廣井(左から2人目)。1927(昭和2)年、札幌農学校時代にメソジスト派の宣教師M.C.ハリスからともに洗礼を受けた同期生の内村鑑三(左端)らと、受礼50年記念として東京・青山墓地のハリスの墓に詣でた(北海道大学付属図書館北方資料室 所蔵)
(文責:フリーライター 柴田美幸)