高橋敏五郎
〜北海道に適した道づくりを。積雪寒冷地の道路技術の礎を築く〜第1回 
 文・フリーライター 柴田美幸

(写真提供:北海道開発局札幌開発建設部)

 札幌市中心部から空港のある千歳、そして港のある苫小牧、室蘭まで伸びる国道36号。その始まりは、幕末に開削された日本海側と太平洋側をつなぐ道だった。これを原型として、開拓期に札幌と函館を結ぶ馬車道「札幌本道(室蘭街道)」が開削される。その後も鉄道とともに重要な長距離交通路としてあり、1952(昭和27)年、新道路法によって一級国道36号線に指定された。とくに札幌〜千歳間は戦後初の本格的な自動車道路として開通し、寒冷地に対応した画期的な技術が用いられたことから、北海道における道路建設の金字塔と言われる。北海道の現代道路史に残る偉業を成し遂げたのが、技術者・高橋敏五郎(たかはし としごろう)である。

植物と文学好きでマイペースな秀才
 高橋敏五郎は1906(明治39)年、山形県中山町で安藤家の5男として生まれた。野山の自然に親しみ、採ってきた植物を庭にたくさん植えていたという。
 北海道との縁は、小学5年生のときに網走の高橋家の養子になったことに始まる。しかし、新しい環境に馴染めず、外で遊ぶより小説や講談の本を読み漁るようになった。卒業後は旧制中学校進学のため山形へ帰郷。1年生のときは片道12kmを徒歩で通学していて、途中にあった茶屋の小母おばさんとの思い出を、晩年に「老人のメルヘン」というタイトルで物語風に綴っている。

 その後の進路に関して、養父母は高等師範学校に行かせようとしていたらしい。だが、北海道帝国大学(現・北海道大学)の寮歌に憧れていた高橋は勝手に願書を提出。難関を突破してしまった。1924(大正13)年、北海道帝国大学予科工類に進学した髙橋は、友と映画やレコードを楽しむなど学生らしく充実した日々を送った。一時期は文学に熱中し外出もせず本を読みまくり、本来の勉学に支障をきたしたこともあったようだ。のちの髙橋の文章に垣間見える文学的センスは、こうして培われたのかもしれない。
 現在の学部にあたる本科は、一番人気だった土木科に進級を果たす。高橋は、あまり興味のない授業はノートもとらずに教授を眺めていたので奇妙に思われ、ある教授から「君はノートをとらないそうだね」と言われたという。一方、橋梁工学や構造工学には熱心に取り組み、卒業論文「札幌市北五条跨線橋の設計――ラーメン型鋼橋」は廣井勇賞を受賞。教材にも使われるほどの完成度だった。

北海道帝国大学工学部時代(出典:『寒地土木開発事業の偉大な指導者 高橋敏五郎』)

土木試験室に集った若者たちの挑戦
 1930(昭和5)年、北海道帝国大学工学部土木科を卒業した高橋は、北海道庁札幌治水事務所に就職する。日本が不景気にあえいでいたころだった。まもなく1932(昭和7)年に札幌土木事務所へ転勤し、道庁技手として5年間で夕張橋や空知大橋などの橋梁を手掛ける。岩見沢の岡山橋(昭和11年竣工)も高橋によるものだ。現存する戦前の鋼道路橋の一つで、北海道初のソリッドリブ・タイドアーチ橋*として貴重である。

*アーチの両端を弓の弦のように引張材でつないで橋台にかかる力を弱め、軟弱な地盤に対応する設計
参考:「岡山橋~道路の神様 高橋敏五郎の若き日の技」(草野作工HP)

岡山橋(岩見沢市東町;選奨土木遺産)

 1937(昭和12)年、髙橋は函館土木事務所へ転勤になったが、100日も経たないうちに札幌へ戻される。「札幌土木試験室」の開設にあたっていた人が内務省へ栄転したため、その後任に据えられたのだ。回想によると「どんな目的で試験室ができたのか、今後どんな調査試験をするのか」は、まったくわからないまま発足したとあるが、高橋は初代主任に就任。全国の試験所を視察し、機械を揃え、その年の冬にようやく開設準備が始まった。
 開設にあたり、道庁土木部から言い渡されたのは、「研究室は大学の研究室のようなものをやってもらっては困る。工事に直接役立って予算の節減をはかるものでなければ…」ということだった。テーマはおもに土地改良、道路の舗装関係、木橋の改良だったが、まだ設備が整っておらず、経済効果に結びつくような試験などそうはない。予算をつけてもらうのもひと苦労だった。

 試験室のメンバーは、土地改良課や治水事務所などから若い技術者が兼務として集まり、新たに採用された人もいた。髙橋は道路課との兼務だった。メンバーには、土質マニアなど個性的で様々な分野の専門知識豊富な面々が揃っていた。
 上司が絶対的な権威を持っていた時代にあって、若者ばかりの試験室は気楽でのびのびできたようだ。昼に食堂で上司と一緒になると、なるべく目立たないところで砂糖をたくさん入れたコーヒーを飲み、逃げるように研究室へ向かったという。髙橋が記した『試験所誕生記』には、「みんな若くて、朗らかで、そして希望に満ちて未知の世界を探ろうとしていた」とある。髙橋らは試験室でアメリカなど海外の試験法を議論し、実用のヒントを見つけようとした。

札幌土木試験室発足当時の高橋(前列右)とスタッフ(出典:『寒地土木開発事業の偉大な指導者 高橋敏五郎』)

 しかし、これといった成果が上げられず、髙橋は試験室閉鎖の危機を感じていた。不景気と日中戦争による資材不足のさなかであり、有益で予算が節減できる技術開発が求められている、という緊張感が常にあったのだろう。
 最大の危機は、合理主義・節約主義で知られた土木部長が着任したときだった。ある日、髙橋は早朝5時から土木部長の官舎へ呼び出される。恐る恐る訪ねると、まんじゅうとお茶が出されたきりで部長はなかなか現れない。7時くらいになってやっと現れたと思ったら、試験室の悪口を言い始め、試験室のあり方について論争になった。だが、部長はまったく聞く耳を持たない。もう勝手にしゃべらせておこうと思った髙橋は、部長の話を聞き流しながら、空腹もあって思わず目の前のまんじゅうを食べた。すると、「先輩に説教されておりながらまんじゅうを食べるとはなにごとだ!」と、部長の怒りに火を注いでしまった。帰るときには、なぜか親しい態度で玄関まで送ってくれはしたが、「試験室はおそらく閉鎖になるだろう」と髙橋は覚悟した。
 その数日後、土木部長が試験室の視察にやってきたが、結果的に閉鎖されることはなかった。どうやら、わざと理不尽なことをして部下のメンタルを試すというのが、この部長のやり方だったようだ。髙橋は、きっと部長のメンタルテストにパスしたのだろうと考えた。こうした髙橋のメンタルの強さは、のちの大工事でも発揮されることになる。

 そして、試験室は徐々に成果を上げ始めた。1つめは、道路舗装の「ソイルセメント工法*」である。アメリカの道路舗装の路盤を安定させる処理工法を応用した新工法は、懸賞論文で賞を取った。のちに、この工法は改良が加えられ全国に普及することになる。

*ソイルセメント工法:セメントに複数の有効成分を添加したセメント系固化材と水と現地の土砂とを混合撹拌して強固な柱状体を杭状に構築し、安定した地盤を形成する工法。

2つめが、戦争による鋼材不足から、海外の技術をヒントに木材とコンクリートを合成する工法を考え出した「木コンクリート橋」である。実際に見本橋を架設して自動車を通すテストを行って、荷重に十分耐えられることがわかり、鋼材の代用工法として全道および全国に広まった。

3つめが、積雪寒冷地における土木技術の開発だ。この研究は試験室をもっとも特徴づけるものである。背景には第二次世界大戦のぼっ発があった。北方の防衛基地として北海道や樺太(サハリン)、千島列島に飛行場が建設され、積雪や凍結に対応する寒地技術が求められたのである。おもに、寒中コンクリート(凍結時期のコンクリートの施工)や圧雪があるが、髙橋たちは道路除雪に重点的に取り組んだ。なぜなら、除雪は市民生活にも直結した問題だったからだ。当時は戦時中でガソリンが貴重だったため、木炭自動車が多かった。だが、パワーが弱く雪が積もると走れなくなり、結局、馬そりに頼らざるを得なかったのである。当然、除雪車など手に入るはずもなかった。
そこで高橋らは、土木事業用トラックにスノープラウを取り付けるという方法を考え出す。1942(昭和17)年3月、鉱山が持っていた除雪車や海外の雑誌を参考に江別の工作所でプラウを作り、古いフォードトラックに取り付けて試運転に挑んだ。

 工作所構内に雪をかき集めて深さ50〜60cm、延長5〜6mの試験場を作り、テストがスタート。しかし、プラウを雪に突っ込み1mも進まないうちにエンジンが止まってしまう。何度やってもすぐ止まるので、業を煮やした工作所の所長が「勢いをつけてから突っ込め!」と命令した。言われたとおりにバックして勢いよく突っ込んだとたん、プラウが雪に突き刺さって逆立ちになり、その上にトラックが乗り上げてプラウをへし曲げてしまった。見ていた人は皆、笑いをこらえていたというが、この失敗が技術者魂に火をつけた。
 その年の末までに改良を加えて雪が降るのを待ち、正月5日、髙橋は試験室の仲間を誘い、札幌市街地でテストを実施する。しかし、圧雪に車輪が沈没するなど苦戦した。食事もろくに摂らず夜明けまで格闘することになり「疲労、空腹、失望感で雪道を歩くのがひどく辛かった」と回想している。これが北海道で最初の道路除雪の試みとなった。

トラック除雪車での除雪試験(昭和18年)(出典:『道路こそわがいのち 高橋敏五郎さんのあしあと』)

 現在、試験室は国内唯一の積雪寒冷地における土木技術に関する研究機関「寒地土木研究所」となっている。高橋が試験室主任を務めたのは2年ほどだったが、辞してからも深いつながりを持ち続けた。試験室での出会いと仕事は高橋の大きな財産となり、前例のない道路づくりへとつながっていくのである。

前代未聞の大工事がスタート
 戦後、1951(昭和26)年に北海道開発局が発足すると、函館に着任していた高橋は札幌に戻り、札幌開発建設部長に就任する。その翌年、札幌〜千歳間の道路改良工事が決定。それは全長34.5mを舗装するという、前例のない大規模な工事であった。
 工事はアメリカ進駐軍からの要求だった。終戦の1945(昭和20)年から進駐軍が札幌や千歳に駐留し、1950(昭和25)年に朝鮮戦争がぼっ発すると、千歳基地が戦線への本拠地となった。札幌にあった司令部と千歳との往来が激しくなり、道路はひどい状態になっていたのだ。高橋の工事報告には次のようにある。

 改良前の状態は有効巾員6〜7m、最急勾配10%、最小半径30m……程度の砂利道であったから、2000台の自動車交通の下に路面は一寸の路肩も残らぬ程に踏みつぶされ、毎日のグレーダー作業で路盤はやせ衰え、文字通りの黄塵万丈、そこを通る時は絶えず圧迫される様な危険感に包まれ、千歳に近づくに従って、何かしら殺気立った印象さえうける程だった。

昭和25年ごろ、官舎にて(写真提供:北海道開発局札幌開発建設部)

 進駐軍は往来に2つのルートを使用していた。ひとつは開拓使時代からの道路を元に拓かれたルート。月寒や輪厚を経由する道は、近道だが急な坂道やカーブがあるため除雪が難しく、夏のみで冬は利用しないことから「サマーロード(夏道)」と呼んでいた。もうひとつは、恵庭(柏木)から枝分かれしたルート。北広島や島松を経由する道は、遠回りだが平坦で冬も走りやすいため「ウインターロード(冬道)」と呼んで使い分けていた。
 実は、高橋自身も近いうちに道路を改良しなければならないと感じており、また、改良工事が始まるらしいという噂があったので、ウインターロード側になるだろうと、おおよその測量を終わらせていた。常に2、3歩先を考えるクセがあるという髙橋らしさが表れている。

 1952(昭和27)年8月末のある晩、東京にいた上司から突然電話が入り、札幌〜千歳間の工事概算を見積るよう指示される。戦後の援助物資の見返りとして米軍の要求で行う事業の特別予算「日米安全保障費」がつくことが決定したのだ。ただ、米軍からの厳しい条件もついていた。「すぐに着工し、1年で完成させよ」というのである。
 北海道では冬に工事できないため、1年といっても来年10月までというのに等しい。実際に工事できる期間はわずか7、8ヵ月。しかも、それまで1km以上の舗装工事を行ったことがなかった。「約束しても大丈夫か、もし違約すれば対外的に難しい問題になるかもしれない」という上司に、高橋は「一晩考えさせてください」と答えて電話を切り、考え込んだ。

土埃が舞い上がる舗装前の道路状況(出典 : 『札幌・千歳間道路物語』)

 そして、ひとつの結論に達する。「駐留軍の要求は交通ができるようになればいいのであって、私たちの考える『完成』とは少し違うと思った」。次の朝、高橋は「やりようによってはできますよ」と返事をする。「少々ハッタリ的」だったと高橋は回想しているが、持ち前のメンタルの強さが発揮されたと言えるだろう。こうして、札幌〜千歳間の全長34.5kmを1年未満で改修するという前代未聞の道路工事はスタートを切った。

 目論見が外れたのは、改修がウインターロードではなくサマーロードに決定したことである。「冬道は平坦だが延長が長く、沿道に人家や耕地が多い。夏道は起伏が激しいが用地障害が少なく工事が楽」という高橋の客観的な分析から、上司によって断が下されたようだ。
 また一から測量と設計、そして工事のスケジュールを立てて土木作業の手配をし、期日内に舗装まで終わらせなければならない。当時は舗装作業ができる業者が限られているうえ技術も低かった。舗装作業はどうしても来年6月から始めないと間に合わないだろう。すると、土木工事は今年10月には開始する必要がある。だが、測量だけで100日かかり、設計ができないと工事契約も遅れてしまう……。頭の痛い問題が高橋を襲った。
 そこで考え出したのが、測量設計が完成する前に、概算設計で工事の請負契約をするという方法だ。「あとで本契約に直せばいい」という柔軟な発想で、出だしの問題をクリアした。とはいえ、測量設計はしなければならない。タイミングが悪いことに、職員は一般公共事業工事の最盛期で忙しく、手の空いている者などいなかった。
 ここでも高橋は大胆な作戦を考える。やみくもに多くの職員を集めるのではなく、ベテランだけに声をかけたのである。出張所長級の数名だけを集めて、それぞれに助手をつけ、測量設計から現場監督までやってもらうことにした。一般工事で直接現場を担当しない出張所長は比較的自由に動けたのだ。3名の地方の出張所長・事業所長と、以下12〜13人のメンバーが揃い、これを高橋は「少数精鋭主義」と呼んだ。思惑どおり、即戦力として優れていた彼らによって、的確な判断が求められる場面でもたんたんと作業が進み、工期短縮につながった。
 さらに、あらかじめ工事スケジュールを決め、各業者の作業能力に合わせて細かく工区割りをし、確実に完成できるようにしたことも大きい。大工事が必要なところには、開発局でプールしていたブルドーザーやスクレーパーなどの重機を投入して作業能率を上げた。大型の建設機械による本格的な工事は、北海道ではこれが初であり、以降の道路工事の機械化を促進するきっかけになった。

(第1回おわり) 第2回に続く 

<参考文献>
『寒地土木開発事業の偉大な指導者 高橋敏五郎』
『道路こそわがいのち 高橋敏五郎さんのあしあと』高橋敏五郎遺稿集編集委員会
『札幌・千歳間道路物語』北海道道路史調査会
『北海道道路史 Ⅲ路線史編』北海道道路史調査会
「土木計画業務支援入門」社団法人 北海道開発技術センター(原口征人)
「夢を現実に紡いだ北の技術者達の道物語 人間力で築いた北海道の土木遺産」(DVD)北海道土木遺産伝統プロジェクト