北海道の道路を変えた3つの技術
札幌〜千歳間では、工期短縮の工夫だけでなく、北海道および全国で初となる技術が多数試みられた。そのうち代表的なものが3つある。
1つめは路盤の凍上対策。戦後は除雪が普及し始めていたが、寒気にさらされ路床(舗装面の下の土の部分)が凍結して霜柱ができる。春になると解けて路床が軟弱になり、その上を走ると舗装が割れる凍上被害が多発していた。高橋は試験室時代に凍上も課題としていたが、理論上の研究や現場調査が主で、その後も本格的に施工されたことはなかった。
凍上でデコボコになった道路のようす(出典:『札幌・千歳間道路物語』)
高橋は、札幌周辺で土が凍る深さ約100cmの80%、つまり80cmを凍らない材料に置き換える「路床土置換工法」を採用する。ただ、多く使われる砂利や砂、砕石などの材料だけでは工費がかかりすぎ、ほかの工事でも使用していたため供給不足が問題だった。代わりに大量に用いたのが火山灰だ。それまで道路工事に使われたことはなかったが、背に腹はかえられなかった。
沿線では良質な火山灰が採れたが、不良火山灰や腐葉土が混じったものを使用するとそこから凍結してしまう。高橋は現場で判断できるよう、簡単な識別方法を示した。
イ)色が白色、または白色に近いもの
ロ)指先で強く押して粒子が砕けないもの
ハ)水を加えて、もんだり、握ったりしても、粘性の出ないもの
これら3点を使用基準としたのである。実際、完成後に良質の火山灰のみの部分に異常はなかったが、不純物が混入した部分は凍上被害が起きたことから、対策の効果が証明された。
2つめは、アスファルト舗装を採用したこと。今ではあたりまえに思うが、当時はコンクリート舗装が主流で、約35kmもの長さをアスファルトで舗装したことはなかったのだ。コンクリートは頑丈だが工費が高い。80cmもの厚さの立派な路床の上に高価なコンクリートを敷くのはオーバースペックだと高橋は考えた。さらに、コンクリートは乾くのに時間がかかるので限られた工期には適さない。もし凍上で破損したら補修も大変である。これらを鑑みて、半分の工費で済むうえ短い工期で施工でき、補修も簡単なアスファルト舗装という結論にいたった。
だが、周囲の反対は大きく、白っぽいコンクリートと黒っぽいアスファルトになぞらえて「白か黒か」論争が巻き起こる。高橋は論文を書いて上層部の説得に努め、予定通り「黒」に決まった。もとは積雪寒冷地特有の事情からの発想だったが、安価に早く施工できるアスファルト舗装は全国で普及し、今日ではアスファルトと言えば道路を意味するほど主流となっている。
ただ、アスファルトにしたことで、のちに新たな課題も見えてきた。冬は滑り止めのタイヤチェーンによる摩耗が激しく、凍結して固くなったアスファルトが粉々に砕け散ってしまうのだ。当時、タイヤチェーンによる摩耗は世界中のどこにも例がなかった。なぜなら、海外では完全に除雪したり、凍結防止の塩化カルシウムを散布したりするので、ほとんどの場合タイヤチェーンを必要としなかったのである。しかし、除雪の技術が未熟だった当時の北海道では不可能だった。
しかし偶然、白ペンキの中央線などに用いられたカットバックアスファルト(油で溶かした軟らかいアスファルト)の部分は無事なことを発見する。その後、失敗とともにカットバック量を改良しながら、北海道だけの基準が作られていった。
そして3つめは、自動車「主用」道路としての改良を行ったことである。高速道路などの自動車「専用」道路と違い、歩行者や馬車などとの混合交通を許しながら、自動車をおもな対象とした道を意味する。ドライバーは、平地の人里近いところでは自然とスピードを落とし、人気(ひとけ)のない山間部や原野ではスピードをあげる。高橋はこれを「山速里鈍の法則」と呼び、平地より山間部に高い改良規格を用いて設計を行った。山間部でスピードを出せるようにすることで、道路全体でのスピードアップを図ったのである。設計の仮定速度を、平地45km/h、山間部60km/h、地形の良い山間部75km/hの3段階に設定。これは当時の全国的な基準(道路構造令)にはない考え方であり、独自に考案したものだった。
また、路肩にはすべて縁石を設置した。業者が施工しやすいよう定規の役目があったが、ドライバーに路肩と舗装の境目を示すためでもあった。とくに急カーブは10cm上げ、内側をジグザクに仕上げたことで夜間ヘッドライトを反射しやすくなり、路肩への飛び出しを防いだ。このような、走りやすさと安全性への工夫も怠らなかったのである。
高橋がこだわった、カーブに設置された内側がジグザグの縁石(写真提供:北海道開発局札幌開発建設部)
センターラインを引いたのも、北海道ではこの道路が最初だった。ペンキ屋に雇われた学生アルバイトが、舗装ができあがったそばから手書きで実線を引いていったそうで、主要メンバーの一人は「本当に見られたものではなかったんですよ、あのラインは…」と回想している。革新的な技術と手作り感が同居していたことが感じられる。
高橋は、時間があれば休日だろうと関係なく現場を訪れた。そして「舗装は自分の家の座敷をつくるつもりでやれ」と言っていたという。そして、髙橋のもとで働いていた人々は、氏を〝がんこ親父〟と呼んでいた。工事の発注時期に我が物顔で出入りしていた談合屋を毅然と出禁にし、ヤクザまがいの押し売りが部長室に凄みながら入ってきたときにも、髙橋はまったくひるまなかった。「わたくしは公務中であり、君たちの来るところではない!」と、ひょろっとした見かけからは想像できない気迫のこもった声で一喝すると、相手は意表を突かれスゴスゴと退散した。
こうした髙橋の厳しいところに、部下たちは近寄りがたさを感じていたようだ。また、髙橋の話は無駄を省略し要点だけを言うので、ときに理解できないことがあった。さらに、抜群の記憶力と常に先を読む力を持ち、飄々とした雰囲気と痩身でギョロ目という見た目から〝火星人〟ともあだ名された。
一方、酒好きで日本酒を好み、酔って興に乗るとよくしゃべり、歌を歌いだすこともあったという。こうした二面性が髙橋の魅力となっていたのだろう。
自然と調和した、公園のように快適な道路へ
1953(昭和28)年10月末、期限を守りほぼ1年で札幌〜千歳間の道路は完成した。11月2日に竣工式、3日に開通式が行われることになり、ほっとひと安心…というわけにはいかなかった。竣工式を目前にした数日前、少し強い雨が降った。実は、火山灰地帯を通過しているため大雨に弱く、なんらかの被害が心配されたのである。だが、時間がなく十分に対策できていなかったのだ。
そして懸案は現実のものとなる。厚別の現場から、路肩に雨が集まって流れたところが30cm以上の深い溝になっているという連絡が入った。最悪、路肩が崩壊する危険性もある。高橋たちは筵(むしろ)を買い集めて張り、これ以上浸蝕されないよう応急処置をほどこし、なんとか無事に竣工式と開通式にこぎつけた。まさにギリギリまで格闘していたのである。
開通式当日、新聞には「きょう弾丸道路開通式」という見出しが踊った。札幌〜千歳間の道路は、いつしか「弾丸道路」と呼ばれるようになっていた。その由来は、軍事協力の事業という批判をこめて米軍の弾丸を運ぶ道だからとか、弾丸のように早く完成したから、自動車が弾丸のようなスピードで走るから、など諸説ある。いずれにせよ、誰もが開通を心待ちにしていたことは確かだ。沿道の中学校の校庭には人文字で「祝ドーロカンセイ」と書かれ、開通を祝って弾丸道路での自転車レースまで行われた。
高橋は祝賀パレードのジープに乗り先頭を走った。苦労した日々を思い起こし「沿道の一木一草も、戦友のように思われた」と書き残している。だが、高橋にとってこの道路はあくまでも試作品だった。先に述べた、タイヤチェーンによる冬のアスファルトの摩耗など大きな課題は完成後に見えてくるとわかっていたのである。高橋は、引き続き調査を行って対策を講じ、その経緯は「その後の札幌―千歳道路」という文章にまとめられた。
完成した道路で渡道式が行われた(出典:北海道開発庁五十年史)
札幌~千歳間道路の、札幌方面から島松方面を見たようす(昭和29年)(写真提供:北海道開発局札幌開発建設部)
1958(昭和33)年、道路公団職員となった高橋は、名神高速道路所長に任命され北海道を離れることになる。そして、京都で日本初の高速道路である名神高速道路の建設に関わった。ここでも大幅な工期の短縮が求められたが、髙橋はその要求に見事に応えた。北海道での経験が生きたのだろう。
1963(昭和38)年、札幌の先輩の会社に誘われた髙橋は、再び北海道の土を踏んだ。このとき本州への永住を考えていたが、無性に北海道が懐かしくなったという。
居を構えた札幌郊外の旭ヶ丘は自然豊かな住宅地で、庭をつくり、子どものころから好きな植物や野鳥に親しんだ。そして、自然環境と土木に思いを巡らせるようになる。きっかけは、やはり札幌〜千歳間道路の建設だった。高橋は次のように述べている。
長距離にわたって整頓された一本の舗装道路を管理して見て、私達は初めて道路の美化―道路沿線の公園的扱いという、新しい問題を発見した。(中略)道路全線にわたり、切土、盛土、側溝その他敷地内の一切のものについて、美観に留意して設計され、施工されたということは、ほとんどなかった。特に北海道では、土地も広く、景観も粗野なために、道路工事のやり方も荒々しく、こうしたセンスに欠けていたように思われる。そして札幌千歳道路も、この欠点を多分に持っていた。
続けて、崩れかけた法面にはできるだけ芝を張り、景観上の空白地には苗木を移植することなどを提案している。札幌〜千歳間道路の雨対策も、その後、草を生やすなど処置したことが沿道の美化に役立ったと評価している。この「道路沿線の公園的扱い」という考えは、高橋の土木人生の後半を貫いていた。
のちに、改良された郊外の道を走ると「コチコチの感じ」がするのは、地形や地物を無視した画一的な造りだからだと分析している。また講演会では、冬季オリンピックによって利便性だけで開発された道路が増え、本来の自然環境が破壊されていることへの危惧を「環境問題と土木技術者」というタイトルで語った。高橋は、札幌オリンピック冬季大会組織委員会の関連施設部門と交通部門の委員長を務めていたのだが、高度経済成長のまっただ中で違和感を抱いていたのかもしれない。本当の意味での「快適な道路」とは、自然と調和して造られるものであり、人間の都合の良いように自然を改造するものではないのだと。
執筆する晩年のようす(出典:『道路こそわがいのち 高橋敏五郎さんのあしあと』)
晩年の髙橋は、身近な自然や子ども時代の思い出について旺盛に執筆した。古希の記念に出版した『北海道 身近な自然 野草と山木』は、エッセイ風の文章に和歌を引用するなど、植物と文学への深い造詣が注ぎ込まれた一冊である。
その約10年後の1986(昭和61)年1月27日、髙橋敏五郎は永遠の眠りにつく。81歳であった。
こののち、高橋のもとで鍛えられた一人の技術者が、その精神を受け継いで大きな仕事を成し遂げることになる。高橋が思い描いた自然と調和した道路づくりのバトンは、次の世代へ渡されていくのである。
<参考文献>
『寒地土木開発事業の偉大な指導者 高橋敏五郎』
『道路こそわがいのち 高橋敏五郎さんのあしあと』高橋敏五郎遺稿集編集委員会
『札幌・千歳間道路物語』北海道道路史調査会
『北海道道路史 Ⅲ路線史編』北海道道路史調査会
「土木計画業務支援入門」社団法人 北海道開発技術センター(原口征人)
「夢を現実に紡いだ北の技術者達の道物語 人間力で築いた北海道の土木遺産」(DVD)北海道土木遺産伝統プロジェクト